12.陛下専属侍医アルジャーノン
目が覚めると夢だったのかと思うほどにあっさりと隣にアナベルがいなかった。慌てて飛び起きると、窓の外を眺めていたアナベルが「あら、起きました?」と振り向いたことにほっとしてヴァージルはそのままべしゃりと寝台の上に崩れ落ちた。
「アナ、良かった…ついにアナ不足で見た夢だったかと…」
「幸か不幸か現実ですよ」
アナベルは笑いながらヴァージルの元へ来るとじっとヴァージルの顔を見つめ、ひとつ頷いた。
「顔色もずいぶん良いですね。目の下のくまは取り切れていないようですが」
「あー…万年睡眠不足だからね」
へらりと笑ったヴァージルを呆れた顔で眺めつつ、アナベルは寝台横の呼び出し紐を引いた。
「アナ、今何時です?」
「もうすぐ午前のお茶の時間ですよ。起きたら呼んで欲しいと医務官の方から言われていたのですけど…よく眠れたみたいですね」
洗面器に水差しから水を張るとアナベルが寝台まで持って来た。そんなメイドのようなことをしなくても…とも思うが、夫婦の時間を邪魔されるのも嫌なのでヴァージルは素直に受け取った。どちらにしろアナベルが呼び出し紐を引いてしまったのでその内誰かに邪魔はされるだろうが。
水が飛ばないよう顔を洗い、差し出された布で拭うとずいぶんとすっきりした。そろそろ風呂にも入りたいところだ。もしや昨日は臭わなかっただろうかと今更ながらにヴァージルは気になった。
「僕、臭う?」
「……顔を洗い終わったなら洗面器を受け取りますね」
「あ、臭うんだ……」
ヴァージルが肩を落とすと洗面器を受け取ったアナベルがおかしそうに笑った。
「気になりませんよ。何年夫婦をやっていると?」
「アナ!!僕の天使!!」
腕を広げてアナベルを抱きしめようと手を伸ばしたところで扉が叩かれた。まだ洗面器を持ったままのアナベルに飛びついたらアナベルが濡れてしまうところだった。助かった。
「はい、起きていますよ」
ヴァージルが声を掛けると医務官と、それからまたも陛下専属侍医が入って来た。陛下専属、専属の意味とはいったい何だろう。
「おはようございます、閣下。ご気分はいかがですか?」
「寝たせいか快調ですね。胃の方も落ち着いています」
「痛みは?」
「いつも通り?」
「はい、駄目ですね」
「あ、駄目なんだ……」
にっこりと大変良い顔で笑った侍医にヴァージルはへらりと笑った。
「駄目ですね。私の弟子も日々、痛くないのが普通だとお伝えしておりますでしょう?」
「いつも通りってだけでちょっと痛いってことが筒抜けなんですね」
「当然ですね。閣下の胃痛は私たち王宮勤めの医者にとっては頭痛の種ですので」
「あ、病人増やしちゃった、胃が痛い」
「お元気そうではありますね」
苦笑いをした陛下専属侍医に、アナベルが「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。侍医の後ろでいつもの医務官が少し得意げなのがヴァージルの気に障る。まさか陛下専属侍医の弟子だったとは…医務官は家名がエヴァレットでは無いので見落としていた。思い込みは恐ろしい。
「僕はいつ頃から動けそうです?」
医務官を見ていても楽しくないのでアナベルへと挨拶を返している侍医に聞くと、侍医が呆れたように眉を下げた。
「お仕事は少なくとも二週間禁止です」
「え、長くないです?」
「王妃殿下からのお達しです。王弟殿下からも可能ならば一ヶ月は黙らせろと言われております」
「え、横暴、権力の乱用」
「わたくしの意見としては半年は療養していただきたい」
「王妃殿下に従います」
「そのように」
ふと、思い立ってヴァージルは聞いてみた。
「陛下は何と?」
ふたつほど瞬きをすると、侍医は面白そうに口角を上げてそれから堪えきれなかったのか笑った。
「ふふ…痛いのが治るまで寝てるのは無理なの?それだとみんな困っちゃう?だそうですよ。あの陛下が」
「やっぱりうちの子育ってるぅぅぅ……」
「長く診て参りましたが……この数年で陛下はずいぶんと変わられましたね」
「やっぱりです!?」
「ええ」
優しく瞳を細めた侍医が頷いた。
ヴァージルよりほんのちょっとだけ年下のこの侍医は、陛下が生まれた当時はまだ新任の医務官だった。以前は一官吏として逃げ回っていたヴァージルはそこまで深く関わったことは無かったが、これまでどれだけの人間が入れ替わって来たか分からない中で今もこうしてあの陛下の側に置かれているというのが彼がこの国と真剣に向き合ってきた証だろう。ましてや陛下の専属。生半可な覚悟と忍耐力では務まらなかったはずだ。
あの十一年前を越えて彼もヴァージル達と同じくここにいるのだから。
「もうね、僕、感慨深くてですね…」
「お察し申し上げますよ」
ほっほっほ、と人好きのする笑顔で笑う侍医に医務官がぎょっと目を見開いて振り向いた。なるほど、普段の関係性が見えるというものだ。
「さて、では腕を失礼いたしますよ」
そう言うと侍医はヴァージルの手を取り脈をはかり、下瞼をひっくり返して確認し、目をじっと見て舌を見て聴診器で胸と背中の音を聞き、そうしてお腹の音を聞いた。
「はい、しっかりと動いておりますね。本日は薬湯だけで過ごしていただき明日からは薬湯以外に食事として具の無い澄んだスープを召し上がっていただいて問題ありません。それで何もなければ明後日からは具をすり潰した野菜スープを試しましょう」
「あ、結構まともに絶食なんですね」
「胃の機能が止まっておりましたからね」
「止まる」
「ええ、止まる」
「じゃああの激痛は……」
「正確には胃が異常な緊張状態に陥って急激な収縮を繰り返し、それが激痛を起こしたんです」
「えー、でもそれなら良くありますけど、あんな痛いの初めてでしたよ。いつもなら痛くても我慢できる範囲でしたししばらく転がってれば治まりますもん」
「頻繁に起こしていること自体が異常なんですよ」
「あー、うん、はい、スイマセン」
半目になった侍医からヴァージルはすっと視線を逸らした。逸らした先、医務官がまたも誇らしげな顔をしていていらっとした。
「閣下のそれは疲労とストレスが一番の原因です。お気持ちはお察ししますが……閣下が数日休むのと閣下がお倒れになるのと、どちらが国に影響が大きいのかを良く考えてくださいね」
「う…胃が痛い……」
「ははは、休むのもストレスではもうどうしようもないですね」
「妻がいれば改善します」
「では公爵家の方を何とかするのが一番ですね」
「ついでに次の宰相候補もですね」
「それはまた難しい」
「ですよねー!」
はっはっはー!と楽しげに笑うおっさんふたりに、アナベルと医務官が顔を見あわせ、何とも言えない顔でまたふたりを見た。
「いや、割と冗談じゃなくてですね」
「ええ、お察しします」
「冗談じゃないのは僕だけじゃないんですけどね」
「陛下より『侍従って何するの?』と聞かれましたよ」
「あ、育ってる!!」
「ストークス殿の結婚前には何とかなると良いのですが」
「やっぱりそう思いますよね?」
「ええ、切実ですな」
ストークスはダレルの家名だ。ダレル以外の侍従を付けろというヴァージルの願いをウィルフレッドなりに考えている、ということだ。何という僥倖、何という奇跡。
ふと、ヴァージルが顔を上げると侍医もまたヴァージルをじっと見ていた。どちらからともなく手を伸ばすと、がしりとお互いの両手を握り合った。
「ぜひヴァージルと」
「ではどうぞアルジャーノンと」
「これまでは中々お話する機会もありませんでしたが今後はぜひ密に、アルジャーノン殿」
「ええ、願っても無いことでございます、ヴァージル殿」
なぜ気が付かなかったのだろう。陛下専属侍医なのだ。正式に専属になったのがここ数年だったので気を抜いていたが、陛下専属侍従であるダレルと同じくらいに重要な情報を握っているに決まっているでは無いか。
陛下専属侍医改めアルジャーノンも同じ思いだったのだろう。ヴァージルを見つめる視線が熱い。
がっちりと両手を握り合い真剣にお互いを見つめて頷き合うおっさんふたりに、「気が合ったみたいで良かったですねぇ」と医務官は囁き、アナベルは「夫にお友達が増えたようですわ」と苦笑した。




