アーキス 3
Ⅵ アーキス
『アーキス、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
押し込まれる寸前にささやかれたのは、フィーブの妄信に近いほどの、きつい確信だった。
―――自由になってくれ。
フィーブの、血を吐くばかりの願いが、感じ取れた。
聾がわしいほどの音をたてて入ってきた男たちが、そのうちのひとり、見覚えのある男が、フィーブを嘲りはじめる。滴る悪意に、あの男が、フィーブを妬んでいると、察した。
フィーブのからだの震えが、切ない。
フィーブのことを、抱きしめたかった。
どれだけ、ここから飛び出したいと思っただろう。しかし、今飛び出したところで、フィーブを助けられはしない。元の木阿弥どころか、本末転倒でしかない。フィーブのしたことのすべてが、無駄になる。それは、痛いほどに、真実だった。
フィーブの願い。
それは、私が、自由を取り戻すこと。
しかし、フィーブは、知らないままだ。自由を取り戻したとして、傍にフィーブがいない自由では、今の私には、もはや意味がないということを。
フィーブがいてこその自由こそ、私が欲する唯一のものだと言うことを、フィーブは知らないでいる。
だからこそ、私だけで逃げろと、そう、言うのだ。
自由にだけしておいて、私の願いを、知らない。
フィーブさえいてくれれば、フィーブのぬくもりを胸の中に感じてさえいられるならば、実は、ここで閉ざされつづけていようと、かまわないとまで、思えるのだ。
こんなにも、私は、フィーブを、愛している。
―――そう、愛しているのだ。
逃げるなら、フィーブも共に逃げるのでなければ、意味がない。
それを、知ってもらわなければ――――私の中で、何か得体の知れないものが、ぞろりと、鎌首をもたげた。それは決して不快なものではなかった。このまま、この衝動に、身をまかせてしまいたい。内なる誘惑に、私は、逆らうことができなかった。
フィーブに、私がどれほど愛しているか、知ってもらわなければならないな―――――
私であって私でないものが、歌うようにつぶやく。まるでそれが合図ででもあったかのように、くらりと、すべてが、揺らぎ、溶け消える。
私もまた、溶けてしまう。
その灼熱の酩酊を、私は、ただ、黙って、受け入れた。
焦りを感じるほどに長い時間と思われたそれは、しかし、あっという間の出来事に過ぎなかった。
フィーブが、振りかぶった一撃を、男が受け流す。
フィーブを、捕らえ、何事かを、フィーブに告げる。
それらが、まるで、匙の端からながれおちる蜂蜜のように、ねっとりと間延びして見えた。
そうして、新たな登場人物の、不快な姿までもが、私の視界に入ってきたのだ。
ボルティモア―――
驚きはない。
むしろ、それは、当然の姿だった。
喉の奥が、可笑しなように震えた。
クク――と、笑いがこみあげ、止まらない。
面白い。
そう、今日は、ちょうど、十日目。十日前に、ボルティモアは、私の血を啜った。一度の吸血の効果は、今日で、切れる。
私の血には、常習性がある。
一度くらいならまだしも、強い薬効のある薬がそうであるように、飲めば飲むほど、きれるときの苦痛は、はかり知れない。私の血は、人間のどんな病も癒すとされているが、常習しなければ、意味がないのだ。
きれたからといって、死にはしない。死ぬことはないが、おそらく、本人は、死を心から望むだろう。――正気を保ってさえいればだが。大半が、あまりの苦痛に、今目の前にいるボルティモアのように、狂い、見境なく血肉を貪るものに成り果てる。
成れの果て――を、嘲りたくて、たまらない。
あれは、私を、閉ざし貪った、当然の報いなのだから。
こみあげる、悪意。おさまりきらずあふれる、狂気。
喉も弾けよと、私の喉の奥から、哄笑がほとばしった。