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いわゆる、前日譚です。
三年E組の教室の隅、窓際の前から四番目の席に座る彼の名前は、逢坂陽太。
名前にパリピな雰囲気漂う「陽」の字を持つ彼は、現実味が薄いほど整った顔立ちをしている。
透き通るような白い肌と、長く影を落とすほどの睫毛。そして、感情の機微を読み取らせない、少し茶色みの強い瞳。
髪は色素が薄いのか、光に当たると暗いアッシュグレーに見える。
常に姿勢が良く、教科書を開いている姿は、まるでどこかの国の「陰鬱な美形王子」が異世界転生して学校に迷い込んだかのようだ。
そのミステリアスな雰囲気こそ、二年の女子たちから「翳りの貴公子」と呼ばれているゆえん。
ただし、その高貴な二つ名には、女子たちの間で囁かれる「来る者拒まず誰とでも寝るらしい」という非常に生々しい注釈が付いていた。
私は現在、この「翳りの貴公子」と一線を超えることを、人生の最重要課題としている。
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ことの発端は一昨日。廊下で耳にした、クラスの女子たちのヒソヒソ話だった。
「ねえ、美波ちゃんと唯ちゃんって付き合ってるのかな?」
「あやしいよね。いつも一緒にいるし、仲良すぎだし」
「なんか、唯ちゃんちって、両親がゲイなんでしょ?」
「やっぱ家庭環境がそんな感じだと、同性を好きになるのかな?」
高校に至るまでの学生生活が走馬灯のように蘇り、「あぁ、ついにこの時が来た」と憂鬱になった。
別にどうしても隠したいわけじゃないし、私は今の両親の娘であることに何ら不満はない。
そこから生じる、世間の様々な意見も右から左に流せるくらいは、強くなったと自負している。
だから、私はどんなことを噂されてもいい。
でも、親友の美波が巻き込まれることは望んでいない。
親友にまで、ホモフォビアからの連想ゲームで疑惑の目が向けられているなんて、申し訳なさすぎる。
彼女は他校に彼氏ができたばかりだし。
今幸せそうだし。
こうなったら……。
「恋人を作って、真っ当な異性愛者であることを証明せねば!」と、短絡的に決意した。
そう閃いたものの、問題は山積みだ。
私は今まで一度も男の子を好きになったことがない。
むしろ女の子といる方が落ち着くし、楽しいし、楽だ。でもこの気持ちが恋なのか友情なのかわからない。つまり、自分の恋愛対象が男性なのか女性なのか、判別不能状態。
困った私は、彼氏ができたばかりでノリに乗っている美波にお昼休みに相談した。
「ねぇ美波、性的指向を簡単に判明できる検査キットとか売ってないかな? 妊娠検査薬みたいな感じのやつ」
「あるわけないじゃん」と、冷たく返された。
「でもさ、性的指向不明なまま、日々を無駄に過ごしたくない。私も美波みたいに、アオハルしたい」
「えー、じゃあその辺の男子とヤってみれば? 生理的に無理だと思ったら、女子が好きってことじゃん」
「え」
「だって、ヤるだけでわかるんだから、唯の言う、性的指向を簡単に判明できる検査キットみたいなもんじゃん」
彼氏とスマホでやり取りしつつ、片手間で相談に乗ってくれる美波の言い分は、「なるほど」と思わざるを得ないような……?
「言われてみると、そんな気がしてきたかも」
「そうだよ。化粧品のサンプルの原理と一緒。リップとかアイシャドウとかって、化粧品売り場にサンプルが飾ってあるじゃん。で実際試してコレだってのを見つけるの」
「つまり、私の人生初体験の価値は、アイシャドウの試供品と同じくらいってこと?」
「違うって。実際に使ってみないと香りとか色味とかアレルギーとか細かいことが分からない物だから、サンプルが置いてある。つまり本能に直結してることを試してみたら、自分に合うものが簡単に見つかるかなぁって思っただけ」
美波の持論は、目から鱗だった。
「本能に直結したものを試して、アレルギーになるか確かめる……。なるほど、確かにそうかも知れない」
「あ、でも避妊だけはちゃんとしておいた方がいいからね?」
「わ、わかった」
「それと、実験相手に選ぶ条件としてはさ――」
ターゲットの選定基準は、美波の理論に従って厳正に決めた。
・臭くないひと(←清潔感大事)
・ガツガツしてなさそうだけど、そういうことの経験値が高めな人(←技術に期待、かつ私に執着しなさそう)
・顔は整っていればいるほど良し(←できれば最高の環境で実験したい)
・後腐れない人(←最重要)
そして、白羽の矢が立ったのが、翳りの貴公子、逢坂陽太君だった。
イケメンな上にミステリアスな雰囲気が相まって女子人気は高いけれど、特定の彼女を作らず、「来るもの拒まずなヤリチン」なんて、もはや運命を感じるまである。
「これしかない。ヤリチンの貴公子様に、私の性的指向探求の実験台になってもらうしかない」
そうと決まれば、善は急げだ。
私は、意を決して彼の元に向かった。
作戦名は、『性的指向確定トライアル、被験者ナンバー壱、逢坂君』だ。
昼休み、三年E組に行くと彼は一人席でクロッキー帳を広げて絵を描いていた。
私は迷わず彼の席の横に立つ。すると人の気配を察知したのか、彼はクロッキー帳をパタンと閉じた。
私は胸を張り、深呼吸一つ。
目標は、彼に私とそういうことをしてもらうこと。
ゴーゴーゴー!!
「逢坂君!」
声をかけたら、彼の氷の瞳がゆっくりと私を見た。
やば、噂通り顔がいい。最高の実験台だ。
「あのね、私、逢坂君とそういうことがしたいんだ」
いきなり核心に迫る。声が少し裏返ったけれど、気にしない。
「だれ?」
「あ、失礼しました。私は三年C組、真鍋唯です。以後お見知りおきを」
「で、そういうことってなに?」
「つまり、私と男女の関係になって、ってこと」
逢坂君に身を寄せて、小声で告げる。すると彼は茶色い瞳をわずかに見開いた。
そして、「は?何言ってんだこいつ」という、私を軽蔑するような表情を浮かべた後、窓の外を向いてしまった。
「お願い。美味しいタルトあげるから」
返事がない、ただの屍の……コホン。
「じゃ、学校の行き帰りに荷物を持つ券、一週間分もつける」
「…………」
「仕方ないなぁ。購買で好きなパンと飲み物も買ってあげる」
「…………」
「えー、これでも駄目とか、逢坂君って欲張りっ子なの?」
「…………」
「いいじゃん、減るもんじゃないんだし」
逢坂君は相変わらず窓の外を見ている。
完全に無視されているようだ。
「ねえ、聞いてる?」
「…………」
「おうさかくーん?」
顔を覗き込もうとすると、彼は机に伏してしまった。
完璧な拒否反応。
「そんなに嫌?」
「…………」
「私、そんなに魅力ない?」
「……帰って」
やっと返事が来た。
でも、声が冷たい。
「帰らない」
「なんで」
「だって、まだ承諾もらってないから」
「断ってる」
「聞こえなかった」
「……うるさい」
小さく呟く声が聞こえた。
でも、気にしない。
「明日も来るから。覚悟しといて」
そう宣言して、私はE組を後にした。
*
翌日。
昼休み、私は再びE組に乗り込んだ。
逢坂君は、今日もクロッキー帳を広げている。
ヤリチンの癖に、友達がいないのかな。
でもそんなことは今の私にはどうでもいい。
最重要事項は、「翳りの貴公子」と一線を超えることだから。
「逢坂君、こんにちは。三年C組の真鍋唯です」
爽やかに挨拶すると、彼はクロッキー帳をパタンと閉じる。
そして、「……来たんだ」と目も合わせずに答えた。
「言ったでしょ。明日も来るって」
「知らない」
「言ったよ」
「…………」
今日は、作戦を変えることにした。
「ねえ、逢坂君って何を描いてるの?」
「…………」
「見せて」
クロッキー帳に手を伸ばすと、彼はサッと私から遠ざけた。
「見せない」
「ケチ」
「ケチじゃないし」
少しだけ、会話ができた。
これは大進歩だ。
「じゃあ、質問変える。逢坂君って、どんな子がタイプ?」
「…………」
また無視モード。
「私じゃダメな理由を教えてくれたら、改善するよ」
「しつこい」
「しつこくないと、何も手に入らないでしょ」
「俺は物じゃない」
「わかってる。でも、協力してほしいの」
逢坂君は、ため息をついた。
「なんで、俺なの」
「条件に合ってたから」
「条件?」
「うん。まぁ色々と厳しい審査を合格したってことで、自信持っていいよ?」
逢坂君の眉がピクリと動いた。
「変なひとがいる」
「よく言われる」
「褒めてない」
「わかってる」
少し、空気が柔らかくなった気がした。
チャンスだ。
「ねえ、一回だけでいいから。お願い」
手を合わせて拝みこむ。
「…………」
「ダメ?」
「……考えとく」
「本当?」
「嘘」
「ひどい」
でも、逢坂君の口角が、ほんの少しだけ上がった気がした。
*
三日目。
「逢坂君、今日も来たよ。三年C組の真鍋唯でーす」
「……気づいてた」
「じゃあ、答えは?」
「まだ」
「いつ出るの?」
「わかんない」
「明日?」
「わかんないって言った」
「じゃあ、明後日?」
「……なんでそんなに必死なの」
逢坂君が、真剣な顔で聞いてきた。
私は、少し考えてから答えた。
「自分のこと、知りたいから」
「自分のこと?」
「うん。私、絶賛自己探求中なんだよね」
逢坂君は、黙って私を見つめた。
「だから、試してみたいの。逢坂君と」
「飛躍しすぎ」
「でも性欲って人間の三大欲求だから。自己探求には不可欠だと思う」
「……なんで、俺なの?」
「だから、条件に合ってたって言ったじゃん」
「それだけ?」
「それだけ」
嘘じゃない。
本当に、それだけだった。
逢坂君は、長い沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……わかった」
「え?」
「やる」
私は、自分の耳を疑った。
「本当に?」
「ただし、条件がある」
「何?」
「本当に俺でいいのか、ちゃんと考えて」
「考えた」
「昨日今日で考えたことなんて、考えたうちに入らない」
逢坂君は、立ち上がった。
そして、私の目をまっすぐ見た。
「一週間、時間をあげる。その間に、本当にこれでいいのか考えて」
「え、一週間も待てない」
「待って」
彼の声は、いつもより強かった。
「わかった」
私は頷いた。
「一週間後、また来る」
「……来なくていいよ」
「来る」
「しつこいよ?」
逢坂君は、プイッと横を向いてスタスタ歩いて教室を出て行ってしまった。
何だかんだ譲歩してくれたから、悪い人じゃないんだな、って思った。
*
一週間後。
私は、またE組に向かった。
逢坂君は、いつものようにクロッキー帳を広げていた。
「逢坂君、久しぶり。三年C組の真鍋唯です!」
「……来たんだ」
「約束したから」
「俺は来なくていいって言った」
「でも、約束したじゃん。一週間考えてみて、逢坂君とそういうことしたい気持ちに変わりがなければ、やってくれるって」
逢坂君は、クロッキー帳を閉じた。
そして、私を見た。
「考えた?」
「うん」
「で?」
「やっぱり、逢坂君がいい」
逢坂君は、長い沈黙の後、小さくため息をついた。
「後悔しても知らないよ?」
「え?」
「しつこいから」
彼は眉間に皺を寄せながら、「いつにする?」と聞いてきた。
この変わり身の早さは、ヤリチンならではといった感じだ。
ちょっと怖いけど、私は初めてだからそのくらい強引な方が上手くいく気がする。
「今日」
「早い」
「だって、もう一週間も待ったし。寝具もしっかり洗ったよ?」
逢坂君の顔が、僅かに引きつる。
「……わかった」
「じゃ、放課後、迎えにくるね。場所はうちで」
「家族は?」
「パパたち、いないから大丈夫」
「ほんとに?」
「うん。うち両親が二人で自営業してるから、二十一時まで絶対お店にいるんだ。だからよゆーで二回戦できちゃうよ」
耳元で囁くと、逢坂君はビクリと肩を震わせた。
「……お願いだから、自重して」
薄目を向けられたけれど、耳まで赤くて可愛い。
ヤリチンでも案外うぶな所があるようだ。
「じゃあ、そういうことで。やったー、粘りがち」
私は、喜びでガッツポーズをした。
やった。ついに、実験ができる。
これで逢坂君と最後までできたら、私はきっと男性が好き。
女の子が好きな気持ちは、友情から来る好きってことになる。
今まで不確定だった、性的指向が決定すれば、「恋人いない歴=年齢」という黒歴史に終止符を打てるかも知れない。
未来が一気に広がった気がした。
明るい顔になった私に、「一回だけだから」と水をさす逢坂君。
「その点は任せて。ちゃんと後腐れないようにするから」
「真鍋さん」
「なに?」
「後悔しても、知らないから」
「しないよ」
私は笑った。
「だって、私が決めたことだもん」
逢坂君は、何か言いたそうに口を開いたけど。
結局、何も言わなかった。
ただ、「わかった」と小さく呟いただけだった。
放課後。私は、すっかり無言になった逢坂君を家に連れて帰った。
そして、私たちの物語が始まった。




