3
公爵様は私の声に耳を傾けてくれたのか。よくわからないけれど、少しだけ翼に触れることは許してくれた。
左側の翼が、異様な方向に折れている。羽の間からは骨が見えているのだろうか、生々しい傷が胸を痛くする。
その状態で身を守ろうと、己の体を包むように力を入れていたなんて。
「あなたはそうとう我慢強いわね。こんな折れ方をしながら、痛みの声をあげることすらしないなんて」
「翼は鳥の誇り。お前に何がわかる」
医者を呼んだら、公爵に不穏な噂が立つとでも思ったのだろう。彼は必要最低限、信頼できる屋敷の者たちにしか話すことをしなかったのだ。
次期当主が飛べないと言われることは、つらかろう。
血は流れていないが、骨の方向がおかしくなった左の翼に、私は右手をもう一度伸ばした。
そのとき、彼の骨太な手が手首をつかむ。
「この翼を治せなければお前を殺す。人間など、ここの領には必要ない」
つい先週、彼とはロマンチックな結婚式をあげたばかりだというのに。ここまで信用されてないとなると、そういうことだと理解する。私達は本当に、ただの政略結婚で結ばれた夫婦。そこに愛なんて生易しいものは一切なく、これから育むこともできない物なのだと。
「勝手にすれば。私はあなたを治す。殺すかどうかは後で決めて」
「はっ。翼を治すなど無茶なことだ。馬鹿だなお前は。約束を」
「患者は黙りなさい!」
ピシャリと部屋が静まる。寝台の近くにあった花を左手に取り、私はすぐに右手に意識を集中させた。
血脈の音。彼の心臓から流れる、大事な血の音。それから骨の悲鳴。神経の損傷に、彼らの嘆きを耳に捉える。右手を構えて、患部にかざす。
「森の恵み 精霊の木霊 女神の祝福」
「おい、何をふざけたことを」
「さあ、お治りなさい。傷よ花にかわれ」
右手を、左手にあった花へ向ける。すると、花はポキリと茎が折れて、しおれてしまった。
「黒魔術のたぐいか!?お前、俺に何を」
「自分の翼を見てみなさい。安心して、もう治したから」
「!?」
骨は真っ直ぐに整っていた。彼の大きい黒い翼は、右と同じく元のとおり。きれいな、弧を描き、背中から伸びやかに生えている。先程は反対側に折れていたけれど。
傷を治したというのではなく、正しくは花に傷を移したというのがいいだろう。
この力は、『聖女の右手』と言われる反面、もう一つ呼び名がある。傷を他に移す『悪魔の右手』と。
私は容姿と同時に、この力を恐れられた。母はそんな私を恐れていたのか知らないが。昔から人の過ちを許すことを教えこんできた。
『人は間違えるものよ。傷を治そうとしているのに、怯えられ逆にこちらが傷つけられるときもある。でも許してあげて。あなたは優しい子よルナ。それができるはずだわ』
驚く公爵様に、私は背中を見せた。
「心配なら医者を呼んだらどうなのよ」
「待て。礼がまだだ」
くだらない。礼など、散々ないがしろにされてきた。妹のビアンカが日頃の感謝だと渡してきたもの。ぐちゃぐちゃにしたネズミの死骸。ムカデとウジ虫に侵食された、かわいそうな白ネズミの死体。
白い髪と、白いネズミの毛皮。
赤い目と、ネズミの見開かれた赤い眼。
そこに重ねられる私の姿は、彼女が仕組んだこと。
「いらないわ」
「何でもやる。お前の望みは」
「強いて言うなら、早く傷を治すことね。その翼はまだ本調子じゃないもの。ギラの言うように、谷で飛行訓練でもしたら」
足早に部屋を去った。
廊下を通る際、使用人たちはなぜか皆、涙を流していたのが滑稽だったが。
それに加えて、ギラが私にクッキーを渡してきたのも。
落ち着かずに、私は昼寝をした。
今日はとにかく、能力を使ったものだから疲れた。能力というのは使用者の体力を相当食う。おそらくこのまままどろめば、目を覚ますのは無事に次の朝になるだろう。
廊下では無数の人影が、扉の隙間を覗いていた。
「あれは女神か」
「公爵様の傷を治してくれるなんて…」
「ううっ。翼が折れたら俺達は、もう一生飛べないのに」
怪しい人影たちは、一斉にうなずいた。