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他人からの評価というので、もっと重要なのは、他人は「真の自分」を決して評価できないという事だ。
これはウィトゲンシュタインの独我論と言語ゲームの話を考えていて、わかったのだが、一般向けの文章にするので、哲学の話は除く。
他人が自分を評価した時、称賛にしろ非難にしろ、された本人は「自分自身を評価された」と思いがちである。自分もそんな風に感じてきた。しかし、そんな事はありえない。他人が評価するのは、他人の目に現れた上での作品であり、クリエイターであったりする。
人は、誰しも自分の認識に従って世界を見るがその事自体は通常意識はされない。まして、大して何も知らないのに、軽率に他人を批判するような人物はとりわけそのような事が意識されない。そのような人にとっては、自分の感情や言葉というのが、他人のある一面を見て感じた事であるとはまず思わない。人は他人の「振る舞い」のみを見て評価を下す。(「振る舞い」の中には作品も入る)
だから、例えば、本当は物凄く性格が悪い人間がいるのだが、人前では常に性格が良く努めている人間がいるとしたら、その人間の性格は「良い」のだ。彼はあらゆる人、家族・兄弟に大しても自分の性格を偽って振る舞う。死ぬまでの間、そのように振る舞い続けたら、彼は「性格の良い人」である。内心でどんなどす黒い感情が湧いていたとしても、彼がそう振る舞うと決め、そう決心し、そう生きたら、「そういう人間」となる。
人はそれぞれにそんな風に関係しあうしかないし、「いや、本当は彼は悪人だ」という為には、どこかに彼が悪人であるような兆候を見つけ出さなければならない。また、彼が「本当は悪人」になる為に、どこかで実際に悪い事をしなければならない。一つも悪い事をしない悪人というのは悪人ではない。
ある作品が目の前にあって、それを評価する人は、彼の思った事、考えた事を述べているのだが、それは彼の認識によって見られた部分である。そして、評価者にとって、作品の奥の作者の真なる存在というのは見えない。
例えば、小説などでは、ある事に作者が反対なのに、わざと皮肉的に賛成しているような振りをするパターンがある。こういう場合、普通に読める人なら、「わざとこう言っているんだな」と思うが、センスの欠けた人が「ここで作者ははっきり賛成の意見を述べている」とやたら生真面目に断言したりする。僕はそれを見て馬鹿馬鹿しいと思ってきたが、厳密には彼は間違っているわけではない。彼は、彼に見える感想を言っているのであって、この場合、彼が間違っているのではなく、より重層的な世界に入り込めていないだけだ。彼は表面だけを見て判断するが、彼にとって「重層性」とは何を意味するかわからないから、間違ってはいないのである。(正しくもないが)
他人が作品を評価するという場合、評価された側は、自分の全体像を評価された気がするが、「つまらない」と書かれようが「良かった」と書かれようが、それは彼の目に見えた上での評価でしかない。そして、彼が、「この私」の真形を見定め、それを評価するというようなものは基本的には考えがたい。もっと言えば、どのような傑作でさえも、作者の全てを表現するのは不可能であるとさえ言っても良いだろう。何故なら、表現というもの自体がそのような論理によって制約されているからだ。作者の全て、自己の全てという時、それはどのような形をしているのか? …それは正に形になって現れた瞬間失われる何かではないか。もし、本当に素晴らしい批評というものがあるのであれば、それは批評家の心に沈黙という形になって現れるだろう。形は媒介を成すにすぎない。そしてこの批評家は自分の沈黙を大切にするだろう。
基本的に、他者は「私」の奥底に手が届く事はない。しかし、表現されたものもまた、多くは「私」のごく表面ですら表現し得ていない。村上春樹のような作家ならば、自分の「深層」が象徴的に表現されていると言いたいだろうが、「深層」という彼の考え自体がフロイト的に、つまり物質化した心理学的言語に僕の目には映る。村上春樹が自己を表現しえたと感じる所も、そこにあるのは、感覚ではなく、そのような形でならば表現可能だという現代的な芸術理論であると思う。人は理論で芸術を形作る事はできないが、作者がそのように考えるという事は、表現はそこに制約される事を意味する。
話がずれてしまったが、他人の評価というのは、他人の認識に従って現れてくるもので、非難されたら、すぐに腹が立つというのは普通の反応だろうが、大抵は彼は、こちらが感じるようにこちらの全人格を否定しているわけではない。それでも、そのように感じてしまうという事に評価というものも厄介な所がある。
現代であれば、評価者らによって完全に否定されれば、まるでそこに存在がなくなってしまったような感じがするが、それは否定する人の基準に沿って否定されただけの話である。もし、自分が否定者よりも高いものを表現し得ていると信じられるのであれば、そう信じて良いし、信じるべきだろう。だが、その場合は、それを評価する人があらわれるのを期待しなければならない事になる。そんな人は少数しかしないだろうが。
理論が混乱してしまったが、自分の言わんとするのはまとめるならばーー他人の評価は極度に気にするべきものでもなければ、全く嫌うべきものでもない。もちろん、作者が、自分の道を持っているか否かで分かれるが、自分の道を持っていない人は他人に道を作ってもらう必要がある以上、他人の評価というのが自分の道それ自体となっていく。自分の道がある人は、自分の道を追体験してくれる誰かを待つという事になるだろう。前者のようなエンタメ系の行く道は、大勢の人間と共に進行するが、その表す所が彼らの深層に決して触れないという意味で、深層において孤独であろうし、その逆の道は、自分の孤独に他人が触れうるという点で孤独ではないだろう。
評価というものが単に「数」であるという観点からすれば、多くの人に評価される方が良いという現代の風潮そのものになるが、それらは相互に認識というものを問うている。他者の認識が深くなるほどに道は狭くなるがそこに深いものが現れてくる。その深さは一体どこまで行くのかと言えば、あくまでも作品として現れた形式に留まる。作者の存在や人間の存在は常に不定形であり、言葉とか論理はそれを定形として定める。他人の評価は、そして自分の作品もまた、それとは違うものから生まれてきており、それに関しては、形を定めた瞬間、見失われるようなものだ。だが、その箇所に留まって人は創作活動をするべきだと思う。
評価の為に作品を作る人は、評価それ自体も、時間によって、人々の動静によって変動する以上、道を迷う事になるだろう。他人の為に気に入られる為に自分を尽くしても、いずれは他人とは単に自分のできの悪い分身にすぎないという事になる。自分とは触れ得ぬものであるが、それを追い求めていく事が肝要と思う。そして不思議に、自分というものの真形は、自分以外のものを見る事によって現れてくる。セザンヌにとってのサンヴィクトワール山、北斎にとって富士山は、我々が見る山とは違う。それは彼らの心の目に映った山であり、我々は彼らの描いた山を見る時、彼らの心を覗いている事になる。そして、彼らの心を覗いた我々がその感動を言葉にしようとすると、また、別の山を作らねばならないのである。そんな風に、表現活動は連綿と続いていく。そこに正解はなく、ただ延々と続く道がある。この道を歩いていく事が芸術にとっては重要だが、道がない場合は、それぞれの共感や同意によって小さな共同体を作る事になる。だが、この共同体は時間と共にたやすく流されていくだろう。それでも、それらを作り出す人の心そのものは流れはしない。しかし、彼らはその心を認識しない。だから、彼らの評価というのも常に変化し、流れ、一つの道を取らないのだ。