芸術の価値について ーグローバルとローカルー
グローバリズムやインターネットによる言説の流布、多様化というものは基本的に良いものだと、いわばリベラルな常識に従って漠然と考えていたが、最近、そうでもないと思ってきた。
芸術とか文学とは、ここ数十年は世界的に「低調」であろうと思う。それというのは、価値の散逸、普遍化といった現象が必ずしも、芸術における価値に繋がらないからだ。そう言えるのではないか。
佐野波さんというアマゾンのレビュアーが次のような事を書いている。ちょっと引用する。
「さて、僕が話したいのは文学や思想のことです。
意味というものは各人にとっての使用価値なので、ローカルな領域にしか存在できません。
しかし、貨幣価値は抽象化されているため、グローバルな流通が可能です。
何を言いたいかわかりますか?
グローバル化が各人にとっての意味、つまり文学や思想を殺すということです。」
(佐野波さんの「マルクス 資本論の哲学」のアマゾン・レビューより)
ここだけ抜き出してもわかりにくいのだが、グローバル化が芸術や思想の価値を殺すというのはピンと来るものがある。
例えば、自分などにとっては「目標」であろう文学は、新人賞という制度があり、そこから文芸雑誌に載って作家になるのが「夢」だと言われる。小説を書いていると、人は「芥川賞を取れたらいいね」と応援してくれる。「トルストイのような偉大な作家になれればいいね」と言った人は未だかつていない。
芸術の価値は、それが一般的ではない、普遍的ではないものと大きく関わりがあると僕は思う。それは極めて個人的なものであり、言葉の価値は沈黙から発せられるという吉本隆明の思想とも関わりがあるものだ。
マルクス・ガブリエルという若手の哲学者は「世界はなぜ存在しないのか」という著書を出して、「世界」と名付けられるような単一の世界を拒否する事により、人間の主体的な意味性を取り戻そうとしているようだ。僕はまだ読んでいないので、レビューだけ読んで判断しているが、おそらく、マルクス・ガブリエルもグローバルに抗するものが価値だという直感があるのだろう。
哲学の領域で言えば、哲学を科学や数学に擦り寄せる事により、「客観的に正しい」見かけを取って、そこで、制度的な正当性を担保しようとしているのではないかと思う。哲学者がみな大学教授である事と大きく関わりがあるが、彼らが制度と哲学との融和を目指して、唯物論的な社会常識と、そもそも観念的な哲学や思想とを融和させようとしているのは見やすい。僕には、彼らの中から、「ラ・ロシュフコー箴言集」のような優れた哲学書が生まれてくるとは考えにくい。
「文学」においては新人賞という「制度」があり、文芸誌があり、そもそも文学というものがあるかどうか、それが何かよくわからないにもかかわらず、芥川賞とか直木賞とかいう名前が先行している。そこでいずれにしろ、文学作品を作るものが、己の孤独と向き合うよりも、最初から制度と、客体性と向き合う事からスタートを切っている。文学とは己が見たものを語るものだと思うが、今の文学は、文学と呼ばれうるものを目指して人は書き始めているように見える。その場合、呼ばれうるものとは何かと言えば、それがどんなつまらない作品でも、何らかの制度的お墨付き(賞など)がつけば、それによって価値であると認識され、「文学」だと認められるというようなものである。
もちろん、どんな傑作でも、世の中に出なければ、陽の目を見ないままである。カフカの作品がもし本当に遺言通り燃やされていれば、僕らはカフカの名前を知らなかった。そこには価値は存在できなかった。
しかし、もしカフカが、自身の作品を、いわば自分の生のーー運命の基準に照らし合わせて、燃やしてしまえと心から思えないような、中途半端に、今のように新人賞や文芸誌や出版社や観客と向き合って書いていたら、彼の作品にあのような価値は生まれなかったというのも確かだと思われる。カフカの作品の価値は、彼が自身の運命と向き合う事から来ていた。そして、カフカの運命の中には自分の本を燃やす事すら含まれていたのだろう。
僕はここにジレンマというか、矛盾を感じる。価値は沈黙から生まれ、己と向き合う事から生まれる。そこに外部は必要ない。何故なら、外部は内部に存するからである。彼は自身の運命の葛藤の中に、いわば世界を取り込むのである。彼の日常の、あるいは執筆自体が日々の世界運行なのである。己が世界であると感じた時に、世界と離れた価値が生まれる。
しかし、これは同時に、現にある世界、つまり本当に存在する他者の世界に認められなければならない。しかし、今の媒体に様々に溢れる人々に媚びた作品の低劣さはなんであろう? しかし、彼らの言い分は間違ってはいない。彼は言うであろう。「どんな傑作を作っても、人に認められなければ意味がない。どんなくだらないものでも、売れたものが勝ちなのだ」と。
今の世の中は正にこういう状況なので、ここから沈黙としての価値はまず生まれないように思う。価値は己から来るが、己は世界から離れた場所からやってくる。そしてその自己には世界は存在しない。だからこそ、世界にとってその自己は意味あるものとしてやってくる。いわば、旅人、異邦人は外部から来るからこそ、共同体にとって意味あるもの、価値をもたらすのだ。
このような二律背反的な価値というものが、芸術の価値ではないかと思っている。かつて芸術は、一部のブルジョアが担っているものだったが、今や一般化され、誰でも手に取れるし、誰でも創作できるようなものとなった。環境それ自体はよくなった。
しかし、創作という過程よりも、鑑賞という過程の方がより上位に来る世界において、創作行為それ自体に鑑賞というものが入り込んでくる。書くもの、作るものに知らず、他者の視線が入り込み、それが本人には自分らしさだったり、個性だったりに感じられる。それから逃げる事、それを否定するとは世界から疎外される事を意味した投企という事になるだろう。
芸術の価値というのは、正にそんな投企の中にしか発生しないように思われる。(思想の価値もまた) 何故なら、価値と呼ばれうるものは、本来的には何が価値かという基準それ自体も作り出すものだからだ。ネットを見ると、人は、他人の「スペック」について議論するのを好んでいるが、それは数であれば、誰でも簡単に理解でき、確認できるものだからだ。芥川賞云々も正にそのようなものとして機能する。
芸術がもしこれから興隆するのであれば、あるいはそれを期待するのであれば、「芸術の価値」を常に世間並みにしていこうという勢力から身を離す必要があるだろう。文学であれば「文学の価値をもっと人々に」ではなく、人々ではなく自身の運命のみが問題であるような個人が、運命の意味を他者に開いていく時、始めて価値なるものが生まれるように思われる。しかし、そのような個人は、生涯、孤独なまま、どこかで歴史的地層に埋もれていく存在なのかもしれない。
もし神の目を通して見る事ができれば、過去の地層にはそんな埋もれた才能が無数に見つかるだろう。売れればそれでいいという人は、そのような存在を意味のない存在だとみなすであろう。つまり、彼は努力したが挫折した、と。彼の努力は意味がなかったのだ。
しかし、そのような無意味の中からしか価値は生まれないと僕は思う。そして、僕自身が歴史的地層の中に埋もれるとすれば、僕は僕に対して信仰の言葉を慰めとして置いておこうと思う。即ち、ゲーテ、「ファウスト」の言葉
なべて移ろいゆくものは比喩にすぎず
足らざる事もここに高き事実となりぬ
足らざる事も「ここ」では高き事実となる。即ち、歴史的に、唯物論的には意味のなかった無数の屍もまた、それが「絶えず努め励もうとした」という理由により、意味のあるものとして考えられるだろう。ゲーテの言う「ここ」とは現実ではなく、現実の彼岸である。神の目線があるその場所においては無意味なものは一つも存在しない。そして僕達は人間である限り、永遠に此岸に留まり続ける。しかしながら、人間は自身を限界のある存在と考えられるからこそ始めて、信仰としての彼岸を思い浮かべる事ができる。僕はこの彼岸を信じるだろう。そして僕の言う芸術の価値は、究極的にはこの彼岸によってのみ、始めて正当な意味が与えられるだろう。