覗いている深淵
026
「大丈夫ですか、カズマ殿」
「ああ、はい……」
気遣わしげなオキシオの声に、カズマは生返事で返す。
熱中症になりかけた時のように、湯だったように頭全体が重く、意識が鈍っていた。
カズマが今回、連続して召還した〈*ワイズオレイター〉の数は二五個。
この数字自体に大したインパクトはない。
事実、荷物を持ち上げるために同じくらいの数を同時に呼出した経験もあったのだ。
だが、爆発音の再現は――とりわけ、それが大規模なものになると――かなりのエネルギィ消費になるらしい。
やってみて初めて明らになったことだった。
考えてみれば、周辺の空気を丸ごと振動させるような大音響は、数千から数万ワットという電力で、何十個ものアンプやスピーカーを駆動させて出すものなのだ。
自転車型の人力発電機にまたがり、重たいペダルを回してそれに必要な電力を生み出せと言われたら――。
むしろ、消耗しない方がおかしい。
オリンピック級のアスリートなら、瞬間的に一〇〇〇ワットの出力を叩き出すこともできるだろう。
だが、単なる一般人であるカズマにはその一〇分の一が精々。
簡単にいくはずがない。
事実、音響爆弾の一目は作業後に軽く息を吐く程度で済んだが、直後に二つ目を完成させた辺りから明らかに息が切れだした。
以降は加速度的に消耗が激しくなっていき、後半からは、一つ作るのに数百メートルを全力疾走するに等しい体力を持っていかれるようになっていた。
最後は比喩ではなく、一個完成させる度に気が遠くなった程である。
この事実は、カズマにとって大きな誤算であった。
「オックスやサイトの前で、一度、大きな音を出す封貝を披露されたと聞いておりましたが――」
オキシオの指摘に、カズマは弱々しく笑んで返した。
「いや、あれは辺りの集落とかに届いて変な噂になっちゃわないよう、かなり出力落してましたから。距離が近かったし、初体験だったから物凄い音に聞こえただけです。それに、連続っていうのがどうも一番まずい要素だったみたいですしね。まるで懸垂ですよ」
切れ切れにそう返したところで、完全に力を使い切った。
カズマは滅多打ちにされ、ほうほうの体でコーナーに逃げ帰ったボクサーのように丸椅子の上で背を丸める。
横に屈んだナナが、滴るカズマの汗をタオルで甲斐甲斐しく拭いだした。
ややあって、今度はシュウが現れ、こちらは飲料水の入ったコップを差し入れてくれる。
声を出すのもつらいカズマは視線だけで彼らに礼を言い、呼吸を整えようと努めた。
身体は水分の大量摂取を欲しているものの、乱れた呼吸がなかなかそのタイミングを掴ませてくれない。
無理して水を流し込めば盛大にむせ返り、咳き込むはめに陥るだろう。
それでもナナの助けを借りて、数度にわけて何とかコップの中身を飲み干した。
どうにかまた喋れるまでに回復したところで、カズマはようやく顔を上げる。
「じゃ……そろそろ森に戻りましょうか、オキシオさん」
「しかし」
反論しかけるオキシオを制して、カズマは立ち上がった。
思いの他、封貝の生成に時間を使いすぎた。
作戦会議の時間を含めると、ここに来てからゆうに一時間以上は経過しているだろう。
オックスと合流し、北の森まで戻るのにも時間がかかる。もう、あまりゆっくりはしていられない。
それは誰もが理解していることでもある。
オキシオも、もう止めようとはしなかった。
「カズマ様、オキシオ殿。ご武運をお祈りしております」
表まで見送りに来てくれたナナが言った。
「本物の巫女さんに祈って貰えると、本当に何かの加護を得られそうだ」
荷台に乗込むため縁に足を掛けながら、カズマは笑ってみせる。
「そちらも相応のリスクがある仕事です。どうかお気を付けて」
手を差し伸べると、彼女は両手で包むようにして握手に応じてくれた。
柔らかでしなやかな、女の子の手の感触――。
いつもヨウコと並んで歩いていた、幼き日の頃の記憶が刹那、脳裏を過ぎっていった。
「次に会うときは、ナージャと一緒に」
カズマはナナの目を見て言った。
「はい。どうか、私にあの方へ直接お礼をいう機会をお与えくださいね」
頷いて答えると、カズマは巫女の後ろにひっそりと立つシュウに視線を移した。
「〈強欲〉が消えたことは、もう彼の館中に知れ渡って騒ぎになっているでしょう。用心棒の封貝使いを含む無数の強面たちが、街中、血眼になっての捜索を開始していると考えておくべきです。
同じ街中をフィールドとするそちらの仕事に、もしかすると何らかの影響が出るかもしれません。彼らの存在を念頭に入れて行動して下さい」
「ご忠言に感謝する。気に止めて、巫女殿をお守りするとしよう」
「――では」
御者台からオキシオが短く言うと、ギッという木と革の軋む音が小さく鳴った。
すぐに蹄の音が続き、ゆっくりと馬車が動きはじめる。
「オキシオさん、ごめんなさい。分けて貰った食糧、先にいただいても良いですか?」
エネルギィの大量消費で血中のブドウ糖濃度が急低下でもしたのか、身体が重い。
非常な飢餓感がある一方、それ以外のことは何も考えられず頭がぼーっとする。
我慢できなくなり、カズマは恐縮しながら御者台に声を投げた。
「もちろんです」
即答だった。
「カズマ殿から言われなければ、私の方から無理にでも補給をお勧めするところでしたぞ」
自覚にないようだが、お前の消耗の仕方は異常である。
そういった主旨の指摘を遠回しな表現で行うと、オキシオは監視するように振り返ってカズマを見詰めた。
既に、道幅の広い目抜き通りに入っているため、馬車の操縦にはほとんど気をつかわなくて良いのだろう。
速度も徐行に近いほど落ち着いているため、怒鳴らずとも会話が成立するほどに、今は音も振動も穏やかだった。
カズマはオキシオに見られているのを意識しつつ、シュウに貰った包みを手に取った。
ピザとパンに中間にあるような平たく分厚い生地で、刻んだ野菜や甘ダレで味付けた肉を巻き包んだ携帯食であるらしい。
ピリつく指を辛抱強く動かし、包みを口元に寄せる。
一口囓ると、キャベツに似たしゃっきりとした野菜の歯ごたえが伝わり、押し潰された肉から滲み出た旨みが口内いっぱいに広がった。
現金にも、それが体中の細胞へたちどころに広がり、活力を蘇らせてくれたような気がした。
「しかし」
とオキシオが言った。
「これまで散々、封貝で重たい荷物を軽々と持ち上げていながら、今回のその疲弊ぶりはどうしたことなのでしょうな」
「そう、ですね……」
エネルギィ補給で思考に若干の余裕が戻ってきたこともあり、カズマは少し考えてみた。
恐らくこれは複合的な問題なのだろう。
なんとなくだが、すぐにそう思った。
封貝も種類によって燃費は大きく異なり、同じ封貝であっても使い方次第でまた燃費は変わる。
〈*ワイズオレイター〉の場合、召還したりそれを浮かせる、動かす、固定するといった〝音〟を伴わない基本操作に関しては、ほとんどエネルギィを消費しないのだろう。
また、生活音レヴェルの音量で声や音を合成するのも、実際に演奏したり自分の喉から声を出すほどには体力を使わない。
実際に肉体が運動することがなく、各部位にも負担がかからないからであろう。
スピィカーのように常識的な範囲内で音を拡大するのも同様だ。
このあたりは、自動車の運転でいうところの「燃費の良い速度域」に相当する範囲での運用になるのだ。
しかし、普通の自動車はあまりに速度を上げすぎると、空気抵抗が加速度的に増していき、極端に燃費が悪くなる。
〈*ワイズオレイター〉にとって音響爆弾はこれに相当したと考えると、色々なことに説明が付く。
また、カズマ自身が封貝使いとして著しく体力を欠いていた可能性も高い。
素人故に力を無駄に込めすぎたり、ペース配分ができずに自滅した。そういう考え方もできる。
問題が複合的というのは、このカズマ自身の問題も無視できないからに他ならない。
「あまり慣れていない使い方だったこともあるし、大きな音を出すというのは負担が極端に増す上級応用編だったということなんでしょう」
考えたことをまとめるように、カズマは口に出して言った。
「なるほど。ならば、作戦開始間まであまり無理をされるべきではありませんな。せめて、森に入るまででも眠られては?」
大丈夫ですよ。僕だけ休んでなんていられません。
強がって見せたいところだったが、現実にはそれほどの余力はもう残っていなかった。
吐く息に、自分でもそれと分かる疲労が濃く滲む。
「確かに、ちょっと……」
カズマは馬車の縁に預けた背を滑らせ、半ば身体を床板に横たえた。
「休ませて、もらったほうが……良いかも」
ほんの少しだけ。言い訳するように目蓋を閉じる。
本格的に眠るわけではない。
身体を休め、何も考えないようにするだけだ。
オキシオやオックスはあくまで協力者に過ぎない。
なのに、ひとりだけ先に飯を喰らい、ひとりだけ惰眠をむさぼるようなことは――
だが、思いとは裏腹に、一度閉じた目蓋はもう自分の意志では開くことができなかった。
どこかに落ちていく感覚がある。
汗で滑り、掴んでいたハシゴから手を離してしまったような焦り。
ああ、これはやばい――
思った瞬間、カズマは跳ね起きた。
横向けにしていた上体を、手で押し上げるようにして四〇度あたりの角度まで持ち上げる。
「先生、すみません。起こしてしまって」
すぐそこに、窮屈そうに片膝を立てているオックスがいた。
申し訳なさそうに、触れていたカズマの肩から手をどけ身をひいていく。
えっ、となった。
状況が把握できない。オックス――?
身体を反転させて臀部を馬車の底板につける。完全に上体を起こしきった。
その段になって気付いたが、走っていたはずの馬車がなぜか止まっていた。
なにより、周囲の景色が記憶にあるそれから一変していた。
これは明らかに異常だった。
月光に青く照らし出されたインカルシのメインストリートは消え失せ、代わりに森の木々が馬車を取り囲んでいる。
月明かりは頭上高く生い茂る枝葉に遮られ、光源といえば馬車に備えられた松明とカンテラのみ。
光の輪の外側に広がる闇夜からは草や土が香り、その匂いを運んでくる風が、時おり木々に擦れの音を生んでいる。
あちこちから上がる虫の音も加わり、夜の森は存外賑やかであった。
「えっ……?」
流石に嘘だろう。
そんな思いと共に、カズマは腰を軽く浮かせた。
確認するように辺りに視線を巡らせる。
ほんの一瞬、目を閉じただけなのに――。
そのつもりだったのに?
信じがたいことだが、そこは数時間前に一度、馬車を止めた場所だった。
張り出した木の根に車輪をとられ、とてもこれ以上は進めない。
そう相談を受け、カズマは〈*ワイズオレイター〉で馬車を浮かせた。
そうして、三本あるという護送ルートを確認しにいった。あの時の場所である。
確かに、カンテラの光が淡く照らし出す地形、起伏が生む陰影には、どこか見覚えがある。
呆然としながら、隣のオックスに顔を向けた。
「僕、ずっと寝てたの? ここまで……」
問いながら、何かの間違いである証拠を探すように馬車の荷台を見やる。
それでようやく気付いたが、車内には随分と荷物がかなり増えていた。
中でも特に目を引くのが、端にまとめて積み上げられている巨大な革製品の山だった。
目を凝らすと、それが鞍や手綱といった、恐らく馬具の類であろうことが分かった。
オックスが厩舎で調達してきた成果品であるに違いない。
「先生、凄くぐっすり眠ってらっしゃいましたよ。僕らが到らないばかりに負担をひとりに背負わせてしまっていると、オキシオさんと反省していたところです」
オキシオはただでさえ俯けがちにしていた顔の角度を、更に深めて謝意を示す。
「いやいや」
カズマは慌てて言った。
「なんでそうなるのさ。悪いのはどう考えても、小休止のつもりが本気で寝ちゃった僕だよ」
このやりとりは、図らずもカズマに残っていた眠気を完全に払拭させた。
一時間前後とはいえ、恐ろしく深く眠れたことで体力もかなり回復しているのが感じられる。
どうぞ、と差し出された水筒で喉を潤すと、活力も大部分戻った気がした。
「ありがと、オックスくん」
水筒を返し、口調を改めた。
「それで、ここからはどうします? また、封貝で馬車持ち上げますか」
「お疲れの所、心苦しいですが……お願いできますか」
オキシオが御者台に座ったまま振り返り、言いにくそうに顔をしかめる。
カズマは快く承諾し、〈*ワイズオレイター〉を馬車の底面に潜り込ませた。
地形の影響がでないギリギリの位置まで車輪を浮かせる。
一度経験しているせいか、今度はランコォル種も大した混乱を見せず、馬車は再び進み始めた。
自然の中で生きることに慣れているのか、先住民族たちは見えない目印があるかのように夜の森を分け入っていく。
カズマからすれば、このロケーションは樹海に他ならない。
自然の迷路だ。
単独であれば、三分を待たずと遭難の憂き目にあうだろう。
オクスゥたちは、自分たちが封貝を持たないことを深刻にとらえすぎている。
そう思った。
しかし実際には、彼らはそうしたものに依存しない、充分に強力な能力や美点を持っているのだ。
「――あ、カズマくん」
待ち合わせのポイントに近付くと、馬車の走行音を聞きつけたエリックが笑顔で手を振てきった。
傍らにはサイトの姿もある。
彼らは自分たちの仕事を終え、一足先に戻ってきていたらしい。
合流して話を聞いてみると、もう三〇分はここでカズマたちの帰還を待っていたのだという。
「それで、巫女はどうでしたか」
サイトが、受取った馬具をさっそく自分たちのランコォル種に取付けながら訊いた。
「あれも若さの成せるわざか、それとも女神の加護なのか、思いのほか回復していた」
オキシオが珍しく白い歯を見せる。
そんな年の差でもないが、祖父が孫を語るような表情だった。
「状況が状況であるだけに、若干気落ちはしていたが……」
話を聞きながら、カズマはシュウに分けて貰った分にオックスが調達してきた分を合わせ、仲間に食糧を分配していく。
オキシオは馬車からランコォル種を切り離しを行い、オックスはモックノフの実から湿気を飛ばすため、焚き火の準備を始めている。
スコッチの見張りを任されていたエリックは、カズマたちがシュウの医療所から貰ってきた――今度はまっとうな――睡眠薬を手にし、改めて人質に投与しようとしていた。
〈強欲〉はこのまま大人しく寝てくれていた方が、本人を含め誰のためにもなるはずだった。
「で、そっちはどうでした? エリックさん」
「それが――正直、大した収穫はないんだ。ごめん」
彼はカズマの差し出す食糧の包みを受取りながら、少し顔をしかめた。
「東は海に突き当たるから論外。南はインカルシだ。これも高い外壁があって、門も開放されていない。ここまでは基本だよね?」
カズマはひとつ頷いた。
「だもんだから、まだ検討してなかった北のルートを模索しようと思って、僕らは〈卑吝の丘〉近くまで行ってみたんだ」
「えっ、処刑場まで? 大丈夫でした?」
「処刑場は遠目に建物のシルエットだけ確認したけど、それが限界だった。明りが見えたから、やっぱり先着して処刑の準備をしているスタッフがいるんだと思う」
「さもありなん。で、〈卑吝の丘〉自体はどんな感じでしたか?」
「丘とはいうけど、あれはもう山だったよ。山脈の入口っていうのかな。ここから一時間くらい馬で走ると着くんだけど、森が突然終わってそこからすぐ山が始まってた。
どうも東の海から、西に向かって真横に長く山が連なってるみたいだ。〈丘〉はこの森を走る護送経路から続く山道を軽く登ったところにある」
「その山道を避けて、別ルートから山越えっていうのはできそうでした?」
「食糧と装備がないと厳しいと思う。ランコォル種が登山に耐えうるかって問題もあるし。封貝使いが空から追ってくることを想定すると、ちょっと厳しいかな」
「となると、やっぱり包囲網をかいくぐっての西側ルートか……」
「うん。結果、そうなると思う。で、ちょっと考えたんだけどね、馬が走る音をカズマくんの封貝で出せたりはしないかな?」
エリック問いに、カズマは考えるまでもなく、問題なく可能であろう、と答えた。
「だったらさ」
と彼は碧眼を輝かせた。
「馬の蹄の音が遠ざかっていく封貝を、逃げる直前に北へ向けて放ったらどうかな? カズマくんたちが持ってきた煙幕の実のサポートもあるし。その音で、僕らが馬で北へ逃げたと錯覚させれば、西へ抜けやすくなるかもしれない」
「おお、それは良いかもですね」
カズマは思わず動きを止め、笑顔で手を打った。
「というか、今のうちに、この辺に人間と馬が潜んでるっぽい音を封じた〈*ワイズオレイター〉をたくさん仕込んでおくべきですね。馬車が来るのに合わせて遠隔操作でそれを再生すれば、護送隊は大群に包囲されていると勘違いするかもしれません」
「良いね。そういう見えないプレッシャーが加われば、人質と囚人の交換交渉も優位に進められるかもしれない」
良い流れが来ている。
不意にそう思った。
確かな手応えを感じる。
巫女のナナに会い、計画に煙幕という強力な武器が加わった。
エリックからは、伏兵や陽動のアイディアを得た。
出たとこ勝負の大博打が、なんとか目処がたつ勝負になりつつある。天秤は傾き始めた。
この良い流れに乗れば――
わき立つものを握り拳に変えながら、カズマは頼もしい仲間たちの横顔を順に見やった。
相手は封貝使いの集団だ。
戦闘のプロフェッショナルと考えて良い。
だが、仲間達もそれぞれの分野におけるプロフェッショナルなのだ。
武力には劣るが、全てで劣るわけではない。
場所も、タイミングも、決めるのはこちらだ。
主導権は自分たちにある。
優位な土俵に勝負を持込み、勝る部分で勝負をかける。
夜が明けようとしていた。
ナージャを乗せた馬車は、もう二時間前後もすればインカルシをたつだろう。
その時は、近い。
「大丈夫。やれるよ」
何かを感じたのだろう。いつの間にか近寄ってきていたエリックに、肩を優しく叩かれた。
彼はそのまま励ますように小さくカズマを揺する。そして続けた。
「僕らは確かに褒められない手段をとろうとしているかもしれない。でも、無実の罪で殺されようとしているナージャさんを救いたいという気持ちは、何も間違ってなんていない。正しいと信じることを、全力でやろう」
「エリックさんはいつもそうやって試合に入っていたんですか?」
「そう。そして、僕は多くの場合、勝ってきた」
「甲子園の常連にそうまで言われると、僕のその勝ち運に乗れそうな気がしてきましたよ」
どちらともなく笑みが浮かぶ。
「よし。じゃあ、伏兵用の封貝をしかけましょう。息遣いとかどんな感じが良いか、エリックさんちょっと協りょ――」
言いかけて、カズマは口を噤んだ。
口だけではない。
全身が硬直していた。
向う正面、五メートルと離れていない草むらの影に、こちらを窺う肉食獣の双眸を見た――
恐らく、状況としてはそれに近いものがあった。
呼吸ができない。
まばたきも許されない。
どちらの禁を犯そうと、その瞬間、あらゆる抵抗を無意味とする暴虐の顎に喉元を食千切られる。無慈悲な暴力に蹂躙される。
それが本能的に分かった。
そして、もう一つカズマは理解した。
今日、自分は死ぬ。
なぜなら、潜んでいるのは肉食獣どころの存在ではない。
抵抗の意思を根こそぎ刈り取るような、圧倒的強度を持つ封貝の気配だ。
それは今この瞬間、楠上カズマの肉体を爆散させ、血の霧に変えることができる。
一秒間の間に、それを二〇回は繰り返せる。
しかも、そんな存在が三つ。
最初の一人は、左方向、恐らくは一〇〇メートルほど先に、気付くといた。
そしてその時にはもう、カズマと仲間たちの存在を捕らえていた。
最初から、こちらを見詰めていた。
次に距離を同じくして背後――
そして、ほぼ間を置かず右方向に、計三つの気配は予告もなくいきなり現れていた。
森の奥に人知れず存在する小さな沼から、そのざらついた表面を割るようにして浮上してきたような、そんな登場であった。
「ぁ……」
絶望の呻きが意思と無関係に漏れ出した瞬間だった。
麻痺していた神経の一部機能が、失われた時と同じように急に戻った。
途端、自分の口内でガチガチ震え鳴る奥歯の音と、怯え狂うランコォル種の嘶きが聞こえ始める。
いつの間に掻きむしっていたのだろう。
冗談のように震えるカズマの両手には、頭皮から力任せに引き抜いたらしき自分の毛髪が無数にからまっていた。
幸いと言うべきか、先住民族たちはこのカズマの異変に気付いていない。
突然暴れ出した乗騎に戸惑いながらも、懸命にこれを宥めようとしている。
隣を見ると、カズマ以外には唯一エリックだけが、三つの化物の息遣いに気付いていることが分かった。
彼は髪までしたたるほどの脂汗に塗れながら、荒い呼吸で怯える視線を周囲あちこちに走らせていた。
感じてはいるが、発狂させかけるほど自分の精神を蝕む物の正体にまでは、まだ理解が及んでいないのだろう。
「な…ぁ……? に……? なに……が……?」
その呂律の回らないエリックの問いに応じるがごとく、直後、それは遅れて現れた。
左右後方の三方を固めるカズマたちの包囲網――これを完成させるように、四つ目の反応が前方を塞ぐ。
それはさながら、ひとつの城塞だった。
個人がどうこうできるスケールの相手ではない。
そもそも抵抗や戦いが成立する存在ではない。
「無理……」
良い流れが来ている?
天秤が傾き始めた?
エリックの勝ち運に乗れば――?
気付けば、カズマは声もなく乾いた笑みを浮かべていた。
なにを勘違いしていたのだろう。心の底から思った。悔いた。
どんなプロフェッショナルを味方につけていようが、ただの数人で城一つを破壊できようはずもない。
たとえプロのボクサーであろうが、その拳で分厚い石の城壁を砕けはしないだろう。
熟練の闘牛士であれ、大砲までは躱せない。
「無理だ……無理、無理……無理だこんなの……こんな……」
崩れ落ちかけるカズマに、その声は投げられた。
「おいおい、しっかりしてくれよ」
身体はびくりと反応したが、行動としては顔をあげることもできなかった。
むしろ逆だった。
カズマは意思の力で、声の方を向きかける自分の動きを制した。
一〇〇メートル以上あった距離をどのようにして瞬間踏破したのかは分からない。
だが、声の主は空間すら歪ませるような禍々しい封貝の気配をバラ撒きながら、ゆっくりとカズマの方へ歩み寄ってくる。
――見るな。絶対に目を合わせるな。
何の根拠もなく、だが必死に自分に言い聞かせた。
声の主を視界に収めてしまったら、何かが終わるような気がした。
受け入れがたい現実が決定的なものになってしまう。
そんな強い確信があった。
「お前らなんだろう? このイヴェントの主宰は」
声の主が遂にカズマの横に並ぶ。
言葉と同時、馴れ馴れしく肩に手を置かれる。
裏腹に親しみの情は一切湧いてこなかった。
それは、こめかみに押しつけられた冷たく固い銃口の感触となんら変わらなかった。
「なッ……」
後方でオクスゥたちが色めき立つ気配が上がった。
突然の闖入者に腰の剣を抜き、構えに入ったのが分かる。
馬鹿なことを――と、瞬間、カズマは怒りさえ感じた。
そんなものが通用する相手ではない。
下手な対応と取るくらいなら、動かない方がよほど良い。
抵抗が許される存在ではないのだ。
「貴様……」
絶句の息遣いが伝わり、やがてオキシオの声が絞り出すように言った。
「ショウ……ヒジカ!」
――ショウ・ヒジカ。
その名には、もちろん聞き覚えがあった。
記憶が確かなら、インカルシ近郊でナージャと接触し、冤罪を着せて追い込んだ張本人。
護士組白虎四番隊を率いる百人長級の封貝使いの名だ。
カズマは思わず顔を上げていた。
最初に見えたのは、象牙色の美しい鎧だった。
そのシルエットは無骨さや仰々しさとは無縁の、優美かつ繊細な曲線で構成されており、第二の皮膚であるかのように主の体格に寸分狂わず適合、完全な調和を見せている。
それだけで、名工の手による特注品であることが一目で分かる仕上がりであった。
その左胸部では、二等辺三角形と鯨の尾びれを組み合わせた印象的なエンブレムが特別な輝きを放ち、自己を主張していた。
街中でもよく見かけた、これがおそらくインカルシの紋章なのであろう。
瞬間、カズマはこれまでとは別の意味で全身を震わせた。
許容限界を越えた狂気的恐怖で、抵抗の間もなく恐慌状態に陥ってしまったが――
もはや、そのような場合ではない。
ここにショウ・ヒジカがいるということはつまり、実行前に計画が護士組に、ひいてはインカルシに露見してしまったことを意味する。
すなわち、奪還の失敗。計画の破綻。
ナージャの処刑は、もう止められない……。
もはや覆しようのないその絶望的事実が、カズマを激しく動揺させた。
「〈赤繭〉を殺さなかったのは正解だった」
ショウ・ヒジカ。そう呼ばれた人の姿をとった化物は、両手を大仰に広げ歓喜の口調で言った。
「思った通りだ。生かしておけば、奴を助けようと動き出す仲間が釣れる」
そしてヒジカは、真横で硬直するカズマに顔を近づけた。
上背のあるこの護士がそうすると、一七〇センチに満たないカズマを上から覗き込むような構図となる。
「お前……この右手」
裂けていくように、ヒジカの唇が薄く三日月型に開かれた。
次の瞬間、カズマは恐るべき膂力で右腕を掴まれ、捩じり上げられた。
ヒジカは〈*ワイズサーガ〉を覆う包帯を鷲掴みにすると、力任せに引きちぎった。
「やはり、封貝か――」
この行為は、あきらかに先住民族の戦士たちを刺激するものであった。
オキシオとサイトが顔色を変える。
「貴様ッ」
「その手を離せ!」
彼らが得物を構え、怒濤のごとく走り出そうとした矢先だった。
スタート直後にフライングの号砲を聞いたかのごとく、二人は突如失速。
驚愕に目を見開きながら、凍てついたかのように動きを止めた。
揃って顎をあげ、引き攣った表情で自分の頸部を見下ろしている。
その視線の先――両者の喉元で禍々しい輝きを放っているのは、鋭く尖った異形の刃物の切っ先であった。
一〇〇メートルほど先からこちらを窺っていた三つの気配が、瞬時に距離を詰めその姿を現わしたのだ。
いずれもショウ・ヒジカとほぼ同じ意匠の甲冑を纏っており、自らがインカルシ護士組の一員であること、ヒジカの部下であることを物語っている。
「誰か、動いて良いと言ったか?」
嘲笑うようにヒジカが言った。
その言葉がとどめとなったかのように、サイトの足元で重い金属音が鳴る。
弛緩した彼の手から落ちた長剣が、石にぶつかったのだろう。
オキシオにしても、武器を手放しこそしなかったが、両腕をだらりと下げ、もはや戦うどころか身動きひとつ自由に取れる状況ではない。
その様子を満足げに一瞥すると、ショウ・ヒジカは改めてカズマに視線を戻した。
「それで――?」
掴んだカズマの右腕を自分の眼前に寄せる。
「ハッ、見たことないな。こいつはなんだ。能力は? 出力は?」
「……ッ」
カズマの萎縮した喉が痙攣するように震える。
今やそれは、発声器官としての用を成していなかった。
「あぁ? 喋れないのか、お前?」
化物は軽く首を傾け、値踏みするようにカズマを観察する。
「深い黒色の髪に同じ色の瞳……」
その眉が微かに動いた。
「珍種だな? なぜ、お前のような変わり種が先住民族なんぞとからんでいる? お前らと〈赤繭〉との関係はなんだ?」
カズマは必死に思考した。
どうやってこの怪物が自分たちを――この場所を嗅ぎつけたのかは分からない。
だが、作戦が露見し、ナージャとの関係もバレてしまった以上、この封貝使い四名全てを排除しなければナージャの奪還は失敗に終わる。
それどころか、カズマたち自身の身も危うい。
良くて逮捕。
場合によっては、今この場で処断される可能性すらある。
目の前の怪物たちによってもたらされる死は、恐らく正規の手続きにのっとって執行される死刑より遥かに大きな苦痛と凄絶さが伴うだろう。
――排除……戦う? この化物と?
「おい」
その声で、カズマの思考は強引に断たれた。
「どうした、なぜ答えない? 仲間が二、三人死ねば気が変わるか?」
「な――ッ!?」
目を剥くカズマの反応に、ショウ・ヒジカは愉悦の笑みを浮かべた。
「どうやら、ようやく話が通じるようになったらしいな」
「ぐっ……」
思わず歯噛みする。
これでもう下手に時間稼ぎすらできなくなった。
だが、身体の麻痺は幾分解消されつつあった。
「ワイ……ズ」
痛みが走るほど乾ききっていた口内を唾液で湿らせ、カズマは続けた。
「この――封貝は、ワイズサーガ」
「ほう」
言って、ヒジカは好き勝手にカズマの右腕の角度を変える。
「それで、能力は?」
「分から、ない」
「はァ――?」
片眉を吊り上げ、オクターブ高い声を出す。
「どういうことだ」
問いつつも、口にした瞬間、何か思い当たるものがあったらしい。
ヒジカの双眸がすっと細まった。
「お前、成長型か?」
と、その時、「隊長」とヒジカの背後から声が投げられた。
見ればオキシオたちを足止めしている二人の隊士から離れ、三人目の封貝使いがエリックの傍らに立っている。
エリックは突き飛ばされたのか、恐怖で腰砕けになったのか、尻餅をつく格好で抜け殻のように呆然としていた。
彼らの間には――スコッチを収めた巨大な風呂敷が置かれている。
固く縛られていたはずの口は既に隊士の手によって解かれ、胎児のように丸まったスコッチの顔、および身体の大部分が剥き出しになっていた。
「こいつは、スコッチ・〝強欲〟・スウォージですぜ」
封貝使いが相手の弱みを握った者特有の下卑た笑みと共に言った。
「どうやら、薬で眠らされているようです」
何を思ったか、それを聞いたヒジカは頭上を振り仰ぐように顎を高くあげた。
そのままの体勢で、そうか、と独りごちるように囁く。
しばらくしてやおら顔を元の位置に戻すと、彼の口元には獲物を見出した狩人の冷たい微笑が浮かんでいた。
「お前らには、詳しい話をしてもらう必要があるな――?」
▼あとがき
なんか、そろそろ容量が1メガバイトを越えそうなんですが……
やっと20kb台の容量に抑えられた! まあ、実は前回の話とこの話まで25話だったんですけどね。最初は。
書いてる途中に、また60kbとかになると気付いて無理やり分割したのでした。
途中、いきなり挿絵として略図はさんでますが、これは前回入れ忘れたやつ(笑)
次回かその次くらいでこの「奪還編」みたいなのは何とか一区切りつくかな?
やはり、この時期が一年で一番執筆を進めにくいです。異様に暑い。五輪が面白くて邪魔するし。
障害が多過ぎます。でも、次ぎも早めに公開できたらいいなー
▼データファイル
【ワイズオレイター】(Y'z Orator)
・オブジェクト系(威力D/射程D+/連射B/精密B/特殊効果S「Y'z」「成長」「抵コスト」「音声操作」)
・特殊タイプ
・**ユニーク**
楠上カズマの遠距離用特殊封貝〈Fox 2〉。
ソフトボール大の白い球状封貝を射出する。サイズは調節可能。内容によっては複数同時召喚可能。
射出されると放物線を描き、目視できる射程内までかなり正確に飛ぶ。
着弾すると使用者の任意で対象に吸着させることが可能。
主な機能は「録音可能なスピーカー」「再生/停止」「コストなしで大量生成(ただしブランクに限る)」「任意の音を合成して鳴らす」「飛行・浮遊」「座標固定」等。
「再生/停止」に限っては他人にも可能。よって歌や演奏を吹き込めば携帯音楽プレイヤー、肉声を吹き込めばボイスレター等のように応用できる。
また好きな音をプログラムにしたがって鳴らすことができるため、複数の音を組み合わせてバンドやオーケストラを再現することも可能。攻撃能力は極めて小さい。録音はカズマ以外の他人の声も吹き込めるが、カズマの操作でしか不可能。




