女神クーネカップ
024
時間に余裕があり過ぎる。
揺れる八両編成の車内、目的地が近付くにつれエリック・J・アカギはその実感を強めつつあった。
予定を変えて、一駅手前で列車を降りる。
――列車? 馬車ではなく?
だしぬけに奇妙な疑問が浮かんだ。
思ってしまってから、吹き出すようにひとり笑った。
声こそなんとか殺したが、肩が震えるのを禁じ得ない。
馬車ってなんだ。よりにもよってこの大都市、かつての首都――東京で。
失笑を隠すため、ついには手で口元を覆う。
まったく、どこからどうして馬車なんてのが出てきたんだろう。
痛む腹筋をさすりながら、階段を上った。
覚えていないが、昨夜はなにかそんな夢を見たのだろうか。一九世紀のロンドンにタイムスリップでもするような――? 改札に向かいながら首をひねった。
もちろん、二一世紀の東京でも馬車が走ることはあった。
たとえば、外交官が駐日大使として赴任した時が、かつてそうだったという。
新任大使は、伝統的に天皇に着任の挨拶をする決まりがある。――あった。
信任状を持ち、これを天皇に渡すために東京駅から皇居まで向かうのだ。
この際、多くの大使が移動手段として馬車を選択したという。
だがしかし、今、馬車のイメージが突然浮かんだこととそれとは関係がなさそうな気がした。
もっと、別の何かから出てきた発想なのだ。
じゃあ、それはなんだ――?
思案しながら改札を抜ける。
南口から駅ビルを出ると、エリックは考えるのをやめて、思わず立ち止まった。
眼前に広がるのは市内有数の繁華街だ。週末ともなればその賑わいもひとしお。
窮屈そうに立ち並ぶビルの谷間を、爆発さながらに広がる喧噪が逃げ場を求めるように、上空へと突き抜けていく。
細い歩道は、往来する人々で歩くのも困難なほどごった返していた。
黒人。白人。東洋人。
〈果て〉が生み出した海外からの避難移民は、日本を人種のるつぼ――多民族国家へと変容させた。
もっとも、これは親世代の受け売り的表現だ。
生まれた時から移民に囲まれてきたエリックたち新世代にとっては、変容もなにも、目の前に広がる世界こそが見知った日常だ。
絢爛豪華な民族衣装を翻らせて歩く長身の女性が、すれ違いざまに残していくエキゾチックな香油の匂い。
建設現場の入口で、運搬車相手にアフリカ系の黒人青年が鳴らす、分厚い唇に咥えられたホイッスルの音。
どれももう馴染みのものである。
曲がり角、人波を巧みに割って現れたのは、徒歩より遅く小径自転車を制御するミラーサングラスの北欧人だった。
フェンスを隔てた車道では、二階建ての青空天井バスが華僑団体の無遠慮な囀りをたれ流しながら青信号を待っている。
負けじと目先の家電量販店の軒先から溢れ出てくる聞き慣れない言語の店内BGMは、旋律というよりもはや音圧の洪水だった。
そもそも、ライトブラウンに碧眼というエリック自身、古い世代の日本人に言わせれば異分子そのものだろう。
日本語以外、喋りも読み書きもできない白人。
昔は笑われたかもしれないが、今ではそこら中に溢れている。
そんな新世代の若者にとって、小さな街の歓楽街はそう広くない。
一〇分も歩くと、いつしか片側二車線あった車道はその本数を半分に狭ばめ――色とりどりに立ち並んでいた看板も、寺社の敷地を取り囲む無表情な白い漆喰の長壁にその様を変えはじめる。
どこまでも続くようであった駅ビルも途切れて遠く、今は所々に地下鉄へ続く口がぽっかりと開けているばかりだ。
「あっ――、ヨウコさん」
そうして見えてきた緑の公園に、彼女の姿はもうあった。
エリック自身、三〇分以上早く着きすぎたというのに、である。
「こんにちは、エリックさん。早かったですね」
千葉ヨウコは、他意のない純粋な笑顔でそう言ってくれた。
なにか筆舌にしがたい眩さを感じて、エリックは少し目を細めた。
実際、彼女は輝かんばかりに美しく、そしていつになく大人っぽい格好をしていた。
柄のない黒のトップスはノースリーブと半袖の中間。
足元を飾る厚底サンダルのベルトも同様に黒一色だが、それでも重たく感じないのは、足首まで伸びるふわりとした白いフレアスカートの存在感故だろう。
生地はコットンのはずだが、ぱっと見は麻に近い印象を受ける、不思議な素材だ。
彼女はこれに麦わら帽を合わせてかぶり、本来は肩掛けであろう紐の長い円形のバッグを手に握って立っていた。
「どうも、お待たせしちゃってすみません」
エリックは営業職の社会人さながらにぺこぺこと頭を下げながら、ヨウコの元へ駆け寄った。
「こんなことなら、そのまま乗ってれば良かったかな」
ヨウコは頭の良い人物だ。その一言だけで、たちどころにエリックの事情を察したようだった。
「早く着きすぎると思って、一駅前で下車したんですね? そして、駅前通りの活気を愉しみながら歩いてきた」
と、心理までそのまま完璧に言い当ててくる。
エリックは苦笑しながら「その通りです」と素直に降参した。
「――しかし、どうしましょうか」
腕時計を確認しながら、トーンを下げてつぶやく。
正直、こういう突発的事態は苦手だった。
予定では、これから移設されたユニヴァーサルシネマで映画を観る予定である。
だが当然、こちらの予定に合わせて上映時間を早めてくれるということはあり得ない。
「私も散歩したいな。ちょっと歩きませんか?」
彼女からの提案はむしろ歓迎である。一も二も無く飛びつかせてもらい、ふたりして園内に入った。
並んで歩くが、腕も絡ませなければ、手を繋ぐこともない。
それがふたりの距離感だ。
エリックは少しずつでも、そこに変化の一石を投じたいと願っている。
が、彼女が同じように考えているとは、横顔を盗み見る限り、どうにも思えないのが現実だった。
脚を踏み入れた公園は、映画館およびその後方に控える遊園地とセットになった比較的広大な施設だった。
外周を走るランニングコースをはじめ、テニスコート、プール、アスレチック器具と娯楽に豊富である。
中央の噴水は人の立入りが禁じられておらず、ほとんど全裸に近い幼児たちがきゃっきゃと歓声をあげながら水遊びに興じていた。
そのすぐ近くにある水飲み場では、悪戯する子どもが蛇口を押さえ込み、迸る水流を見事な霧に変えている。
〈壁〉を越えて直上から降りそそぐ真昼の太陽が、その涼しげなミストの中に小さな虹を生み出していた。
「あっ――、なにあのおもしろ自転車!」
にこにこと周囲を見回していたヨウコが、突然小さな叫びを上げた。
声に釣られて彼女の指す方へ顔を向けると、確かに路上ではちょっと見ない種の自転車が悠然と走り回っている。
ジェットコースターのような地上高くのレール上を、ペダルを回して進ませるもの。
二台の自転車を前後に繋げたようなお馴染みのタイプ。
ほとんど地面にうつ伏せているようにしか見えないスタイルで乗込む代物もあるようだ。
円卓を囲んで座りながら、会議をするように進む奇妙な乗り物まである。
「お金を出せば借りれるみたい。ね、乗ってみない、カズ――」
エリックの袖をぐいぐいとひっぱり、ヨウコが興奮気味に振り返る。
そして気付いた。
「あっ、ごめんなさい」
「気にしないで」
エリックは精一杯の微笑を浮かべた。上手くいったはずだった。
「カズマくんは――」
言って、呼び方が馴れ馴れしすぎたことに気付いた。
確かに、ヨウコとはすぐに打ち解け、ファーストネームで呼び合う許しを与え合っている。
が、カズマとは違った。ヨウコを通して面識こそあれ、交わした会話は挨拶程度。
あくまで彼とは友人の友人――つまりは知り合い程度の間柄でしかない。
幾ら何でも名前呼びは馴れ馴れし過ぎるだろう。
「楠上くんは」と言い直し、エリックは続けた。
「生まれた時からのお隣さんなんですよね。だったらもう、半分家族みたいなものなんでしょう?」
「ええ、はい……でも私、もう何度目だろう」
ヨウコは気まずそうに目を逸らした。それから勢いよく頭を下げる。
「ごめんなさい、エリックさん!」
「いや、ほんとに良いんですよ。間違うということは、彼といるときみたいにリラックスできているということでしょう」
「でも、凄く失礼なことしてるような気がして……それに、恥ずかしいです。学校で先生をお母さんって間違えて呼んじゃってる子を見たことがあるけど、あれみたい」
「はは、それは僕も小学校のころ目撃しましたよ」
「気をつけようとは思ってるんですけど、油断するとつい。でも、やっぱり良くないですよね。逆の立場だったら、私も気分良くないだろう――し……」
ヨウコは尻つぼみに言うと、そこで口を噤んだ。
自分で言い出した、逆の立場とやらを具体的に考えだしたらしい。
「……異性の幼馴染なんだから、エリックさんの場合は女の子ですよね。で、しょっちゅう喧嘩したりするけど、なんだかんだと一番の理解者でもある……」
ややあって、思索にふけるその顔をついと上げた時、彼女の双眸はなぜだか夢見る子どものように輝いていた。
「あれ、なんか凄く面白そう」
ゆっくりと咲くような笑顔が広がった。
「会ってみたい。私、エリックさんにそういう幼馴染がいたら会ってみたいです。友だちになりたい」
「えっ――?」
思わぬ展開に、エリックは目を瞬いた。
それを尻目に、ヨウコはますます勢い込んで続ける。
「なんか、エリックさんから間違えて彼女の名前で呼ばれたりするのも悪くない気がします。きっと私、ますますその娘に会ってみたくなりますよ。それで、幼馴染視点からのエリックさんのことを話してもらうの」
なるほど、その意味ではエリックも楠上カズマという少年にひとかたならぬ興味を抱いている。
ヨウコの口から再三に渡って名を聞かされる機会を得ていたからだ。
「でも、僕にはあいにくとそういった幼友だちはいませんよ?」
「そうなんですよねえ」
風船から空気が抜けるように、ヨウコは両肩を萎らせた。
「残念です、とても」
「今は、存在しないものを羨んでも仕方ありません。ここにある物のことを考えませんか?」
エリックは、自転車遊技場の方を視線で示す。
意図に気付き、ヨウコが艶然と笑んだ。
「それもそうですね」
彼女はバッグこと両手を背中で組み、膝をあまり曲げず前へ放り出すようにして歩き始めた。
今にも鼻唄が聞こえてきそうな、ご機嫌そのものの足取りだ。
女の子と色んなタイプの自転車に二人乗り。
想像すると、これは大変に素晴らしいものであるように感じられた。
こうなると、ヨウコ同様、エリックの歩調も自然と弾む。
だが、冷静になれ。自分に言い聞かせた。いつまでも楠上カズマと間違われるようでは困る。
聞けば、彼はどちらかというと世話を焼かれる方であり、デートをリードする頼りがいがあるタイプではないらしい。
ならば、そこで違いを見せつけるのだ。
この場合――
考えながら周囲に視線を走らせ、エリックは園内に点在する自動販売機のひとつにに目を留めた。
これだ、と思った。これから小なり身体を動かすのだ。
ちょうど喉の渇きを覚え始めるタイミングで、スマートに飲み物を渡すことができれば――
自分の思いつきに満足しながら、二歩先を行くヨウコに視線を戻す。
と、ちょうどその時、彼女がいきなりバランスを崩すのが見えた。
一瞬、硬直してしまったが、すぐにはっとしてエリックは走りだす。倒れようとするヨウコへ手を延ばす。
スローモーションになる世界の中、それはとある試合のワンシーンを想起させた。
内野の頭を越えた打球が、自分の遥か前方に落ちようとしている。
素早く落下地点まで走り込み、飛びついてグラブに収めれば試合は終わる。
一点を争う投手戦を制しての勝利だ。
だが、落せば三塁にいた同点のランナーに加え、既にスタートを切っていた二塁ランナーまでもがホームに生還。
一転してサヨナラ負けが確定する。
追いつかないと。あれだけは捕球しないと。
全てが自分のプレイにかかっているのだ――
無言で唱えながら地を蹴る。
腹を擦りながら頭から突っ込む。
落下地点にグラブを滑りこませる。
雑音の消え去った静寂の世界で、その白球からだけは目を逸らさない。
直後、エリックは整列して自校の校歌を歌った。
勝負を分ける白球は、重たい手応えと共にグラブに収まったのだ。
勝利を掴んだのである。
だが、今回は――
――間に合わない。
ヨウコはつまずいて前のめりにというより、狙撃でも受けたかのように真下へ崩れ落ちていった。
普通ではない。明らかに、異様な倒れ方だった。嫌な予感がした。
普通ではない――?
脳裏を過ぎっていったその言葉が、エリックに改めて現状を理解させた。
その通りだった。
普通ではない。
二歩先を歩いていたヨウコに、何度足を動かしても近づけないのだ。
距離すら縮まらない。
盗塁に必要なだけの秒数を走り続けているのに、ヨウコは常に二歩分先の場所にいて、コマ送りのようにゆっくりと、だが徐々に加速をつけて地面に近付いていく。
膝から崩れ落ちていく。
その様は、まるで自分の足元に広がる影に飲み込まれていくようですらあった。
違う――!
直後、エリックは戦慄と共に悟った。
飲み込まれていくよう、ではない。
実際に、彼女の身体は底なし沼に沈みゆくがごとく影の中に消えようとしている。
ヨウコは倒れかけているのではなく、沈下しつつあるのだ。
現象を理解しても、何が起っているのかの理解にはほど遠かった。
これはなんだ。夢でも見てるのか。
そうとしか思えなかった。
夢の中、それを夢だと認識できた経験は人生でまだ一度もない。
だが、他に考えようがなかった。
ヨウコは今や、沈むどころか、蟲の大群さながらに足元から這い上がってくる影に身体を侵蝕されつつあった。
長い黒髪が意思を持つ無数の蛇のように踊り狂い――だが、背を向けたヨウコ自身は抵抗の素振りを全く見せる気配がない。声すら上げない。
「あぁああぁぁ――」
まるでその代わりというかのように、自分の喉から絶叫が絞り出されていることにエリックは気付いた。
もうどれくらい走っただろう。
恐慌状態に陥った今、フォームなどあったものではない。
全てをかなぐり捨て、ただ悲鳴を上げながら駆け続けてきた。
ヨウコを追っているのか。それともこの悪夢から逃れようとしているのだけなのか。
ぐちゃぐちゃの思考はそれを正しく判断できない。
だがそれでも、世界が決定的に壊れてしまったことは分かった。
もうそこに、週末賑わう緑の公園は存在しない。
空から、真横から、斜め後ろから、幾つもの地平線が多次元的に交差し、絡み合い、空間をずたずたに切り裂いている。
まるで水晶玉の中に閉じ込められた世界が、ハンマーで粉々に砕かれ、それをまた強引に繋ぎ合わされたかのような――
それは事象の地平の彼方、特異点の向こう側から現れた人知を超越した狂気が、稚拙な演技で日常を装っているかのごとき、絶望の世界。魔境。地獄であった。
エリックはいつの間にか立ち尽くし、ただ荒い呼吸を繰り返しながら、自分が泣いていることに気付いた。
かつてヨウコの姿をしていた何かは、今や冗談のように傾いた別の地面に生えた、巨大な影色のイソギンチャクへと変容していた。
それは炎のごとく蠢き、沸騰するようにぼこぼこと表面を泡立たせながら、絶えず複雑に形を変えている。
そして見る間に膨張していき、ふと気付いた時には人間を捕食できるスケールの黒い四足獣として、エリックを見詰めていた。
――えりっく
――J
――夫れ
――いとか弱きエイン
――あかきじゅもく
――問いかける英雄
それが言った。
声として認識したとは到底思えない。
ただ、来客を迎えた時、部屋に散乱するあれこれをまとめてクローゼットに押し込むように、数々のイメージと言葉と概念が何者かの手によって、無理やりエリックの脳へと押し込まれたのだった。
抗議か悲鳴か。
処理能力を超える情報を詰め込まれた脳が、痛みをもってエリックにその無謀の責を問う。
神経を焼かれるような苦痛に、エリックは片目を閉じ、頭を抱えた。
それが潮引くように遠ざかっていくと、目に入りかけた額の脂汗を拭って顔を上げた。
向かい合う影の獣は、いつの間にか猫科の肉食獣を思わせる姿を取り、ぐちゃぐちゃと煮立つその不定形の背部から、腰から上だけの人間のシルエットを生やそうとしていた。
それは化物サイズの黒曜石から荒く削りだした、歪な女性像のようにも見えた。
胴体の中心部に近い内側は鉄黒色。
直線的で鋭角的な切子面カットの身体は鉄紺、烏羽色、紫紺と、それぞれに色彩が異なり、先端に近付くに連れその透明度を増している。
このためシルエットは周囲の背景に溶け込み、半ば一体化しているようにも見えた。
影のように黒い無貌のジャガーと融合した、生ける黒曜石の彫像。
そんな存在をあらわす言葉など、エリックはひとつしか知らない。
「……神……」
――然り
――是
――夫れ万物にありては霊といふ
――吾ぞ
――〈霜のたてがみ〉を駆る者
――傍らの王
――クーネカップ
――夜の風と呼ばるる
――即ち
――なわるぴり
――両者の敵
突然、あらがいがたい目眩に襲われて、エリックは地に両膝をついた。
肚の中、胃が心臓のようにびくびくと脈動しているのが分かる。
逆流してきた内容物を口からぶちまけ、エリックは四つん這いでしばらく喘いだ。
神。クーネカップ。
理解できない。受け入れられない。何が起っているのか把握できない。
俺は狂ったのか?
涙で滲む世界に、そんな思いが頭をもたげてくる。
――汝
――エインの子
――エリック
――選択せよ
――吾が手を取れ
――加護を欲するならば
――誓約の証
――其の身を燔祭に捧げよ
――然為れば
――祝福
――少女の手
――月影を得ん
エリックは両膝をついたまま、弾かれたように顔を上げた。
勢いのまま声を発しようとして、咳き込む。
「神……クーネカップ――ッ」
掠れた声で問いかけた。
「加護を……くれる? 僕に? 貴方に従えば力をくれるということですか」
瞬間、眼前にかかった靄が吹き晴れるように思考がクリアになった。
少女の手、月影というのが、もしヨウコを意味しているのであれば……。
否、あからさまにそれを暗示しているとしか思えない。
そうでなければ、なぜ、この神はヨウコの姿をとって現れたのか――。
クーネカップ。
実在し、しばしば人間の前にこうしてその身をあらわす未知にして異形の化物。この世のものではない何か。
オルビスソーには神がいる。そう聞かせてくれたのは、オックスであったか。
ならば、このクーネカップこそ、その神々の一柱なのかもしれない。
と、ここまで思考し、エリックはようやく気付いた。
そう、自分はヨウコを探して〈壁〉を越えた。
向こう側の異世界〈オルビスソー〉に辿り着き、今は無実の罪で捕らわれたナージャ・クラウセンを追いかけている。
日本にいたのはかつてのこと。ヨウコと待ち合わせして映画を観に行ったのもまた、今では遠く感じられる過去の出来事に他ならなかった。
なぜ、突然こんなにも冷静に現状を把握できるようになったのか。
俄に戻ったこの思考力は、クーネカップの御業なのかもしれない。
おそらく、そうなのだろう。エリックはひとり首肯した。
クーネカップはエリックを発狂させるために顕現したのではない。
こうして語りかけ、意思の疎通をはかろうとしている。
認識した人間を即座に発狂させてしまう程の化物が、相手を壊さないよう何億枚ものオブラートで自分を包んで、なんとかやりとりを成立させようと苦心している――。
エリックはまず片膝をたて、それからゆっくりと立ち上がった。
「貴方は、千葉ヨウコの行方を知っているのか。それを僕に教えてくれるというのか」
――然り
――是
――肯定
「しかし、その代償を僕に求めもする……」
莫大な利益と引替えに、大いなる対価を求め契約を交わす。
これでは神というより悪魔だ。エリックは眉をひそめつつ、だが皮肉が浮かぶほど思考に余裕が戻ってきている事実に自分でも驚いた。
――祭器を取れ
――猜忌に踊れ
――あるがままにあり
――ほっするままにもとめよ
クーネカップの意思に触れ、エリックは自分でも意識しないままにズポンの左ポケットを探った。
指先が何かに触れる。
硬くもなく、柔らかくもない。あたたかくも冷たくもない、その独特の感触は、エリックの全身を強ばらせた。
まさかと思いながら、荒い手つきでそれを握り抜く。
眼前で手を広げ見ると、それは封貝だった。
大きさは、鶏の卵を一回り小さくした程度。
全体的に丸みを帯びており、球体を潰して縦長にしたような形状をしていた。
乳白色の表面は何かで研磨されたように滑らかで、その名の通り確かにどことなく貝を連想させる。
それは旅立ちの際、〈壁〉を越えるための鍵として、玉池サトミから与えられていたものだった。
エリックの記憶が確かなら、〈果て〉を抜けてこのオルビスソーに来たときには、持ち込んだ荷物と一緒にいつの間にか消え去っていたはずである。
「これは――」
エリックは手にした封貝と邪神との間で、何度も視線を往復させた。
「どうしてこの封貝を貴方が」
――祭器を持ちて
――汝、其の猜忌を放て
――此ぞ吾が使徒たる
――燔祭の贄
祭器。その言葉を反芻しながら、エリックは封貝を握りしめた。
ペルナとは神々が生み出した、彼らを祀るための祭器でしかないのか。
それとも、単にクーネカップという邪神が、そう解釈しているに過ぎないのか。
分からない。
猜忌を放つ?
使徒、燔祭の贄……
あまりにも不可解だった。
だが、理性とは別の何か、エリックの中にある本能に近い部分の何かは、裏腹にぼんやりと把握しつつある。
つまり――
「僕にこれを使えというのですか」
その必要はないはずだったが、エリックは叫んだ。
そうやって自分の声という確かなものに触れていなければ、いずれ自分を支える何が折れてしまうような気がした。
急き立てられるように続けた。
「僕も、封貝を使えるようになるということですか。クーネカップ、貴方に忠誠を誓い使徒として従えば……? 望むがままに封貝を使うことが、望みを叶えて貰うための代償だと、貴方はそう言っているのですか」
――為たり
――汝が求むる娘
――エイン
――ユゥオが丞相イングリスに誘われ
――斯くてオルビスソー本土南東端
――イドリースの地に有り
「イドリース!」
エリックは一歩踏み出しながら叫んだ。
ユゥオのイングリスというのが、恐らくは日本に現れ、カズマの腕を切断し、ヨウコを〈壁〉の向こうへ連れ去った人物の名なのだろう。
そして、オルビスソーの本土南東端――
「そこにあるイドリースという場所? 国? そこに今、ヨウコさんはいると?」
――為たり
――然り
――是也
――肯定
イドリース――!
エリックの中に存在する理性的な自分、本能的な、楽観的な、諦観的な、内向的な、意欲的な……様々な自分が、一斉に沸き立つのが感じられた。
眠っていた全身の細胞が一気に活性化したかのごとく、奥底から力が溢れてくる。
掴んだ。今まで杳として知れなかったヨウコの行方が、遂に判明した。
無事に〈壁〉を越えたのか、それ以前、人の姿を保って存在しているのかすら定かではなかった、彼女の居場所をつきとめたのだ。
ほかの誰でもない、自分がである。このエリック・J・アカギがそれに辿り着いた。
そう思うと、歓喜に叫び出したくなった。
いや、実際の所、エリックは咆哮をあげていたのかもしれない。
本当のところは分からない。
とにかく、得も言われぬ多幸感で頭の中がぐちゃぐちゃだった。
自分が泣いているのか笑っているのかすらはっきりとしなかった。
間違いないのは、これが大きな成果であることだ。
ようやくチームに、そしてヨウコのために貢献できたのだ。
戦力と胸を張れる存在になった――。
封貝を持たず、言葉すら解せず、ただ状況に翻弄されるしかなかった無力、無能、お荷物の自分がだ。
クーネカップ――この大神との会見は、自分の今後を大きく変えるだろう。
エリックには強い確信があった。
なぜ、神が唐突に自分の元を訪れたのか、それは分からない。
だが彼女?――は、カズマではなく、ナージャでもない、エリックの元に現れた。
封貝はエリックを選ばず、ナージャやカズマに味方したが、神は既に封貝を持つ彼らではなく、エリック・J・アカギに手を差し伸べたのだ。選んだのだ。
これでもう、これからはもう、自分の力を疑わずに済む。
仲間のお荷物なのではないかと、不安に思うこともない。
エリックはその事実を噛みしめるように目を閉じた。深く嘆息する。
――ック……
気を抜きすぎたのかもしれない。
遠く微かな呼び声が聞こえたかと思った瞬間、不意に世界が揺らいだ。
既知の現象で説明するなら地震以外の何物でもないのだが、どこか違うような気がした。
クーネカップ神が何かをしたのか。まだ何かが起るのか?
疑念と共にそちらを見やるも、そこにもう影の獣と黒曜石の彫像を合わせた異形の姿はなかった。
消えた――?
そう驚くのとどちらが早かっただろうか。
だしぬけに、芯を刺すような強い痛みがエリックの頭蓋を突き抜けた。
同時、鼓膜の内側で、キーンという高音が鳴り出した。
「うっ」という苦痛の呻きを漏らし、エリックはその場にしゃがみ込む。
伴って頭の位置が上下に大きく動いたのがいけなかったのだろう。
今度はそこに立ちくらみの時の酷い酩酊感が加わった。ぐにゃりと視界が歪む。
やばい。
すぐ、本能が悟った。
これは――これから訪れるものは、気力で持ちこたえられるものではない。意思の力ではどうにもならない。
精神と肉体が切り離されるタイプの、無慈悲なブラックアウトだ。
――エ……クさん
予感通り、エリックはそのまま意識がすっと遠ざかっていくのを感じた。
針にかかった魚になったかのような浮上感。
そして、全天に木霊する自分を呼ぶ声。
「おうい、エリックさん」
クリアに聞こえたその声に、エリックはぱちりと目を開けた。
軽く身体が揺さぶられる感覚がある。
それとは別に、高速回転する車輪が未舗装の路面から拾って伝えてくる絶え間のない小刻みな振動。騒音。
「あれ……」
荷台の縁に肘を置き、それを枕がわりにして押しつけていた頭を起こす。
長時間の圧迫で、頬に服の痕が残っているのが何となく分かったが、とりあえず今は無視した。
「あっ――起きましたか、エリックさん」
間近にあった楠上カズマの顔に、申し訳なさそうな薄い笑みが浮かんだ。彼はそれを適当な距離まで引き離しながら続けた。
「疲れてるみたいだったんで、寝かせておいてあげたかったんですけど」
彼は言いにくそうに一旦口を噤んだが、短い逡巡の間を置いてまた続けた。
「うなされてたみたいだし、あと――」
カズマは続く言葉をジェスチャに変えて示した。
人差し指を立て、目元のあたりに向けている。
その意味を理解するまで数拍。エリックは慌てて自分のまなじりを手首で拭った。
確かに、濡れそぼった感触がある。かなりまとまった量の涙を流した痕跡があった。
仲間たちは深く追求せず、直前まで続いていたのであろう雑談に自然な様子で戻っていった。
オックス、サイト、そしてカズマ。
そして御者台に座し、力みのない手綱捌きでランコォル種を巧みに操っているのが、合流したばかりのオキシオである。
荷車の中央には巨大な白い袋が置かれ、エリックたちはこれを取り囲むようにして四隅に配置している。
もちろん、この大風呂敷の中身は眠り薬を飲まされたスコッチ・スウォージだ。これから行う作戦の貴重な――
そうだ。エリックは、はたと思い出した。
ようやく夢の影響下から脱し、完全に覚醒したのを自覚する。
スコッチ・スウォージ。
彼は、これから行われるナージャ奪還作戦の要となる人質候補だ。
エリックは待ち合わせ場所で馬車を守り、オキシオを見つけてきたサイト、ならびにスコッチを確保してきたカズマ、オックスと合流を果たした。
そうして今後の方針を決め――作戦現場の下見をするために馬車に乗込んだ。
記憶にあるのはそこまでだった。
カズマの指摘通り、心身共に疲弊していたのだろう。
気付けば揺れる馬車の上で眠り込んでいたらしい。
その間に見た夢のことはよく覚えている。細部にまで、これまでにないほど完璧に記憶に留まっていた。
だが、ポケットを探っても封貝は見つからなかった。
結局の話、なにか物証でもなければ、あれが夢以上の何かであったという客観的証拠はない。
邪神クーネカップ。ヨウコのいる場所、イドリース。
――話してみるか?
自問した瞬間、それは存外、良い思いつきに感じられた。
オルビスソーの地に足を踏み入れてから早数日である。
その間、じっくりと話をする機会があったこちらの人間は、人攫いの女エォラと、隊商の少年オックスの二人だけだ。
このうち、オルビスソーに存在する神々を少しでも話題としたのはオックスのみ。
だが、その彼との会話のなかですら、クーネカップなる神の名は登場しなかった。
イドリースなる土地の名、位置もまた然りである。
もし、聞いたこともないこれらの固有名詞が、オルビスソーに実在していたなら。
それは、あの夢の信憑性を裏付ける一つの根拠くらいにはなり得るだろう。
「あの、ちょっと聞きたいんだけど……」
あげた声を、カズマが馬車に乗込む前からつけてくれていた封貝が通訳する。
声に応じ、荷車に乗り合わせる全員がエリックに視線を集めた。
まずは、そう――クーネカップの方から。
そう考え、質問の口を改めて開いた。
「こ……」
――こっちの神に、クーネカップっているかな?
そう発そうとしたエリックの言葉は、だが最初の一音を辛うじて絞り出した直後、強引に遮られた。
夢の中で体験した、あの頭蓋を上から下まで鋭い鉄串で貫通された挙句、さらに高圧電流まで流されたかのような圧倒的激痛がエリックを襲ったのだった。
加えて、内耳の奥ではキーンという金属的な高音が、神経を破壊せんとばかりの大音量で鳴り響きはじめる。
「……ッ……あぁ……!」
もはや満足に声すら出せない苦痛に、エリックは固く目を閉じた。
金魚のように意味なくぱくぱくと口の開閉を繰り返し、脂汗を浮かせながら必死に痛みが去ってくれるのを待つ。
一分か、三分か。あるいは、永遠に思える一〇秒に過ぎなかったのか。
頭部に亀裂が走ってはいないかと手で確認したくなるような狂気的責め苦は、発症時と同様、気付いた時にはもう消え去っていた。
ただ乱れた呼吸だけが残り、これを宥めようと必死なエリックを、仲間たちが目を丸くして見詰めている。
無理からぬ話だった。
突然狂ったように痛みに喘ぎだし、しばらくしてケロっと元に戻る人間など、どう見ても普通ではない。立場が逆なら、エリックも口を半開きにして絶句したに違いなかった。
だが、この思いがけない現象は懸念ばかりを生んだわけではない。
――クーネカップは禁句なのか?
突然襲ってきた激痛とそのタイミングを思えば、どう考えてもそうとしか考えられなかった。
あれは余計な口を開きかけた愚者への裁きなのか――。
ならば、イドリースのことはどうなるのだろう。
そこにヨウコがいるかもしれないという情報ならば、他人にもオープンにできるかもしれない。
その情報源が、クーネカップであるということは伏せて話せば良い。
エリックはそう長く逡巡しなかった。
程なく、実際に試し、そして再び電極付きの針を脳天から突き立てられることになった。
やはり……声が、出ない!
あまりにもあからさまな妨害にエリックは呆然としつつ、一方で――自分でも驚きながら――その事実を歓迎しつつあった。
つまり、これは見えない孫悟空の頭の輪――〈緊箍〉なのだ。
おいたをするうつけ者に神仏が与えた戒めというわけである。
彼らが望まない言動を見せようとすれば、頭蓋をかち割らんばかりの耐えがたい激痛を与えてそれを未然に防ぐ。
神は常にエリックを監視し、ふさわしい使徒として管理しはじめた。
そういうことであると考えられた。
逆説的に、彼らは存在する。
クーネカップは本当に自分の元に現れたのだ――。
その結論は、ひょっとすると痛み以上に強い歓喜をエリックにもたらした。
また、一連の推論はもうひとつの事実を浮き彫りにする。
それは、エリックが期待していたように、クーネカップがカズマやオックスたち、他の仲間たちの元には訪れていないということだった。
もし、彼らもエリック同様に夢を見るなどして神と会ったのなら、エリックがそうしたように得られた情報について話をしようと試みたはずである。
しかし、そういった様子はいっこうに見られない。
エリックの言動についても、純然たる奇行としてどこか遠巻きに見守っているだけである。
「あの……エリック殿。大丈夫ですか?」
赤子のように柔らかそうな眉を心配そうにひそめて、オックスが気遣いの声を投げてくる。
「ああ、うん。大丈夫。心配してくれてありがとう。カズマくんの言う通り、ちょっと疲れてるみたいだ」
「なんなら、もう少し寝てても良いんじゃないですか」とカズマ。
「いや、そこまでさせてもらう程でもないよ。また変にうなされるのもあれだしね」
遠慮すると、そうですかとつぶやきながらカズマは大人しく引いた。
「それより、護送ルートが三本から絞り込めない以上、やっぱり僕らは戦力を分けなくちゃいけないんだよね。実際の所、かなり作戦成功率が下がると思うんだけど、大丈夫かな?」
「数字のことはあまり考えない方が良いかもしれませんね」
サイトがどこか諦観めいた微笑を見せ、続けた。
「もはや、やるしかないことについて、あまり不安要素ばかりに捕らわれるのは得策ではありません」
「覚悟を決めて、あとは神の御心のままにってことですね」
「神の御心のままに、ですか」
オックスがきょとんとした顔で首を小さく傾げた。
「エリック殿や先生の世界では、そのような言い回しがあるのですか?」
「え、――うん」
思わぬ問いに、エリックはどこか戸惑いながら頷いた。
「僕らの故郷では、神は信じるものであって、実際に会ったり話したりできる同じ世界に生きる存在ではないけどね」
エリックはカズマの協力を得ながら、地球における神、宗教などについて簡単に解説した。
神の御心のままに。その考え方についても、誤解のないよう簡単に補足しておく。
「オルビスソーでは、こういう考え方はしないのかな?」
「いえ、そんなことはないと思いますよ」
オックスが答えた。
「こちらには、お話ししたように神が身をまとって実在しますが、自分の力が及ばない領域の問題について、その行く末を神の定めに委ねるという考え方は、そちらと同じくさして珍しくはありません」
話題を狙い通りの展開に導けたことに内心、握り拳をつくりつつ、エリックは用意してた本命の質問をいよいよ場に投じた。
「その神って、オックスくんたちが信仰してる――イレス様? その女神様以外には、具体的にどんなのが有名なの?」
「そうですね……たとえばインカルシでいうなら」
と、街を囲う城壁を見やりながら、オックスは続けた。
「商業の中心地ということもあって、商売や交易、富を司るカント様を信仰する人々がやっぱり多いですね。あの方は空や風、策謀、裏切りを司るトリックスターとしての側面も持つから、一部の盗賊にも加護を与えています。
それから、海洋都市ということでエプシガロア様も人気です。海運や船を司る海神で、海での死者の魂を管理されると言われているため、船乗りのほとんどはエプシガロア様の敬虔な信者です。
同じ水神としてはアナイティノ様という女神も存在しますが、彼女はエプシガロア様との兼ね合いもあって、フ=サァンでは比較的勢力は弱めですね。でも、豊穣や家畜、婚姻や子孫繁栄を司るその絶大な神恵は、オルビスソー全体を見れば絶大な支持を集めていますから、神々の中でも一、二位を争う人気があります。非常に強力な女神様です」
「強い力を持つと言えば、クーネカップもそうですね」
待ち望んでいたその言葉は、サイトによってもたらされた。
意思とは無関係に浮き上がろうとする腰を、無理やり下に据え付ける。
声を出さないようにするのは、更に強い自制心を試された。
自ら口にすることはできない。だが、他人を誘導してその口に言わせることはできる。
ルールを理解する度、神との繋がりが強くなっていく気がした。
「一説には女神であるとも囁かれるかの大神ですが、その実、様々な神性と姿を持った複雑な存在で、人間が簡単にくくれるものではありません」
サイトが続けた。
「預言、知識、魔術を司るためそちら方面で強い信仰を集めていますし、夜、誘惑、幻惑などの属性から一部の快楽主義者や娼婦などにも篤く崇められています」
他にも海神エプシガロアと敵対する冬と雪の女神ユー=パス、医療神シノ・アマムをはじめ、〈雷帝〉ヒウンに抹殺されたといわれる魔神イスなど、先住民たちは両手では足らぬほど、次々に神の名を数えていった。
「みなさん、そろそろです。見えてきましたぞ」
御者台から聞こえてきた声に、エリックたちは揃って口を噤んだ。
四者四様に表情を引き締め、進行方向へ鋭く視線を投げる。
インカルシの南側からスタートした馬車は、街を西側から迂回。
北部に広がる森林地帯へと入り込もうとしている。
なるほど、前方には明るい月夜を背景に鬱蒼と茂る黒い木々のシルエットが広がっていた。
「先行する護士組が輸送路の確認や巡回をしているやも。ここからは速度を落して慎重に進むべきかと」
カイトの冷静な進言に、オキシオは「心得ておる」と短く応じた。
直後、ランコォル種が緩やかにその足を緩め始める。
大変なのはここからだった。
インカルシの北側に広がるこの深い森林地帯は、大きく歪な円形を成しており、護送ルートは恐らくその中心部近くを通っている。
サイドから近付くエリックたちは、つまり道を見つけ出すまでに森を奥まで分け入らねばならない。
現実、そうなった。
聞けばこの森は法で木々の伐採が禁じられているエリアらしく、基本的に人間が立ち入ることのないらしい。
必然、道らしい道などなく、馬車が分け入って進むのが困難であることは、三分もしないうちに全員が理解した。
しかし、徒歩に切替えると今度は、移動に時間がかかりすぎる。
ならば、荷車を捨て馬に直接乗るというのはどうか。
これは方向性としては良かったが、鞍や鐙がなければそう簡単に実現できるものではない。
「下見に来ておいて良かった。これは、逃げる時の方法を考えておかないと……」
つぶやくカズマの言葉尻を拾って、オックスが続けた。
「あっという間に立ち往生で捕まっちゃいますね」
「馬車という形は捨てた方が良いかもしれないな」
エリックが言った。
なとなく、発言に積極性が出てきたのは自覚している。
カズマによってリアルタイム通訳してもらえるようになったことだけが、恐らく原因ではない。
「これだけ入り組んでるなら、散開してそれぞれ違う方向に逃げた方が追っ手としても困るだろう。馬は二頭。僕らは五人だけど、〈*ワイズオレイター〉の補助があれば足りるよね」
流し目気味に視線をやると、カズマは無言で頷いた。
彼もまた、〈スコッチの館〉での経験から多少の自信を持ち帰ったようだった。
「オックスくん」
今度はチームの弟分に顔を向けながら、エリックは訊いた。
「インカルシで今から作戦までの間に、直接またがる用の馬具って用意できる? そういうのって買うと高そうだけど」
「それならば、顔が利く厩舎があります」
横から答えたのはサイトだった。
「そこには、使わなくなった古い馬具の類が幾らでも転がっている。捨て値で都合して貰えるでしょう。まあ、快適な乗心地にはならないでしょうが」
やりとりの最中、徐行に近い速度で進んでいた馬車が、ついに軋み音をたてて止まった。
地を毛細血管のように絡み合って這う木の根が原因だった。これが地面に複雑な起伏を生み、もはや車輪では到底乗り越えられない地形を生んでいるのだ。
「階段みたいにガックンガックンしてますね、こりゃあ」
荷車からおりたカズマが、カンテラの光に切り出された周囲の光景に沈んだ声をあげる。
「しかも上っては下り、下りては上ってみたいなことになってる」
「通り抜けるなら、馬二頭分くらいの狭間は探せるのですが」
その横で――こちらは御者台から下りてきた――オキシオが渋面を作る。
彼の言う通り、この辺りは見上げるばかりの高木群が、どれだけ自らの傘を広げられるかを競い合うように立ち並んでいる。
頭上に張り巡らされた長大な枝と、そこに繁る密度の濃い木の葉が陽光を遮るため、他の植物は育ちにくいらしい。
おかげで、木と木の間隔は大きく、探せば馬車が通れそうな所を探すのは難しくないだろう。
「じゃ、浮かせますか」
カズマの提案は全員に受け入れられ、即座に実行に移された。
木の根の凹凸が車輪を拒むのなら、飛び超えてしまえば良い。
単純な発想だが、実に封貝の異能に染まった思考でもあった。
カズマが二桁に及ぶ封貝を呼出し、次々に馬車の底板裏に張り付かせていく。
これとは別に、通訳用やカズマ自信の防御用にも常に複数の〈*ワイズオレイター〉は浮かべられており、その数はやがて総数二〇を数えた。
「凄いね。封貝を使うのって体力は消費しないの?」
不意に興味を刺激され、エリックは疑問をぶつけた。
「まったく疲れないってことはないですよ。たぶん、個人差や使い方にもよるんじゃないかな」
作業の手を緩めずにカズマが答える。
彼の場合、空飛ぶ封貝絨毯で自分を飛ばすのが、今のところ一番の負荷だという。
また、音楽を鳴らすのは、大体その楽器を軽く演奏するくらいの疲労がある。
ただし、楽器自体は存在しないので、たとえばその重量を支える分の体力は差し引いて考えられる。
太鼓やドラムなども本来は全身運動であるが、封貝の場合は動く必要もない。
「たとえば、作戦で使う予定の音響爆弾。あれは、パワーをかなり使いますね。花火みたいに一瞬だからいいですけど、あの音量で鳴らし続けるとなると長くはもたないんじゃないかな」
「要は使いよう?」
「ですね。ナージャみたいな普通の封貝使いは、大木を薙ぎ倒し続けたり、本物の大爆発を生んだりと、僕の〈*ワイズオレイター〉とは比較にならない、桁が幾つも違うエネルギィを扱ってるはずです。燃費が違いすぎますよ。戦車と軽自動車みたいなもんです」
「戦車かあ……」
だしぬけに、エリックは野球部にいた柳木という男を思い出した。
彼はいわゆるミリタリィマニアで、ことある度にその知識を披露してくる男だった。
が、上手く身近なたとえにのせてくるため、部員たちは思いの他それを好意的に受け止めていたものである。
あちいよな、いい加減、部室にクーラーつけてもらいたいよ。
誰かがぼやくと、戦車の中よりましだろ。柳木はそんな風に笑っていた。
空調はあるけど、あれは機械の冷却用なんだ。人間は鉄の箱で汗だくになりながら、自分以外のものが冷されるのを見てるしかない。腹減ってるだけなら耐えられるけど、目の前で他人が美味そうに何か食ってたらそれどころじゃないぞ。
その柳木が、戦車についてはこうも語っていた。
「あれ、リッター数百メートルの燃費なんだ」
確か、水分補給についての座学の後だったか。
「人間の燃費もたいがいだけど、一リットルも飲めば相当の距離走れるよな。でも、戦車はトラック一周も厳しい。まあ、そのかわり何千リッターも詰めるんだけど」
「――エリックさん?」
怪訝そうなカズマの声で、エリックは我に返った。
「ああ、うん。……いや、戦車は確かに恐ろしい火力だけど、確かに燃費は悪そうだなって。ちょっと想像しちゃってね」
言うと、カズマは「ははっ」と声を出して笑った。
「燃費の分、やっぱり火力も次元違いですからね。軽自動車でも体当たりすれば人間くらいは殺せる。僕の〈*ワイズオレイター〉もたぶん、現状では同じくらいの力です。でも、ナージャたちが持ってる封貝がそんなものじゃない。戦車に体当たりされたら人体なんてバラバラだし、主砲に火を吹かれた日には欠片も残らず吹っ飛んでしまう。周囲の建物ごとね」
「そして、軽自動車と戦車が戦えば――」
エリックの言葉に、カズマが唇を歪めながら肩をすくめた。
「正面からぶつかり合ったら、ぴらぴらの金属板になるでしょうね。そして戦車には大砲や機銃がついてますけど、軽にはない。僕と護士組との差、そのものですね」
しかも、敵はその戦車の集団だ。空は戦闘機も控えている。
「カズマくんはまだ良い。僕らは軽自動車ですらないからね。ママチャリくらいだ」
――戦車対ママチャリ。語感こそB級映画のタイトルのようだが、現実には映画にもならない。二時間ではなく、二分で決着がついてしまうからだ。
「あ、そうだ。じゃあ、エリックさんにはこれ貸してあげますよ」
カズマは思いついたように言うと、腰に巻いた革のベルトを外し始めた。
腰にロングソードを吊り下げるためのものである。スコッチの所へ乗込んだ際、倒した用心棒から奪ってきた物、と聞いていた。
「これ、気に入ってたんですけどね。エリックさん、人攫いの時のごたごたでバットなくしちゃったし。丸腰だと色々不安でしょうから。これでママチャリから原付くらいにはランクアップしますよ」
両手でずいと獲物を差し出し、カズマが屈託のない笑顔を見せる。
「いいの?」
「剣は男のロマンなんで惜しいといえば惜しいけど、僕は一応、封貝がありますから。剣がなくなって軽自動車からランクダウンしたとしても、まだピザ屋の屋根付きバイクくらいはある。原付にはまだまだ負けませんよ」
「戦車相手に、屋根の有無って意味あるのかな?」
にやりとして聞くと、カズマもまた同じ笑みを浮かべて返した。
「率直に言って、まったくないですよね」
封貝の準備が整うと、改めてカズマを除く全員が馬車に乗込んだ。
「カズマ殿、こちらは準備万端です」
最後に御者台からオキシオが合図を出す。
馬車の後方に陣取ったカズマは「りょうかへい」と軽い口調で応じると、「じゃあ、持ち上げますよー」と全員に向けて言った。
直後、ほとんど何の余兆もなく、エリックたちを載せた荷車がジャッキアップされるようにぐいと持ち上がった。
感覚からして三〇センチは浮いただろうか。
なんとなく確認したくなり、エリックは縁から身を乗り出して真下を覗き込む。
オックスたちもまったく同じ心境であったらしく、示し合わせたように同じ体勢をとっていた。
「オキシオさーん、ゆっくり進ませて下さぁい」
カズマの声を聞いたオキシオが、手綱でランコォル種に合図を送った。
二頭の賢い馬たちは即座に応じ、命じられるままに足を進めだした。が、あまりの手応えのなさに戸惑ったらしい。
すぐに歩調が乱れる。
人間でいえば、座ろうとした椅子を悪戯でどけられた感じに近いのだろう。荷車にも彼らの動揺が振動となって伝わった。
「どう、どう――ッ!」
オキシオが熟練の技をもって、混乱した馬をなだめにかかる。
「すみませぬ、カズマ殿。さしものランコォル種にも、重量のない馬車を引くという慣れぬ作業には、しばし時間をやりませんと」
「みたいですねえ……」
まいったな、というようにカズマは後ろ頭をかく。
「まあ、ランコォル種は非常に頭が良いと言いますから、すぐに適応するでしょう」
サイトが文字どおり荷車にどっしり腰を据えて言った。
「我々には時間が限られていますが、余裕がまるでないというわけでもありません。焦らずにいきましょう」
「ですね」
カズマは頷くと、両手を万歳するようにあげて大きく前後に振った。
「じゃ、オキシオさん。馬が落着いたら、もう一回チャレンジお願いしまあす」
その時、エリックは四足動物の軽快な足音を聞いた。
蹄が大地を抉る重低音とは、音の厚みがまったく異なっていた。
ピッチも明らかに早く、時として複数のそれが重なって同時に聞こえてくる。
もちろん、この時点でランコォル種とは無関係のものであることは歴然としていた。
「――ッ」
ほぼ同時か、エリックよりも一瞬早かっただろうか。
サイトとオックスがばっと姿勢を正し、警戒態勢に入った。
両者とも何も見えない木立の奥、巣くった闇のさらに向こう側を凝視している。
「野犬ですか」
エリックは声量を落しつつも鋭く問う。
手は自然と、借りたばかりの長剣の柄へ伸びていた。
「犬に近いが――恐らく、それほど可愛いものではなさそうだ」
サイトが近付いてくる駆け音の方を向いたまま、低く言った。
一方、オックスは素早い手つきで予備の松明に灯をともそうとしていた。
闇は嗅覚や夜目に優れた獣たちの領域。暗ければ暗い分だけ不利になる、という判断なのだろう。
「え……えっと、あの――」
対照的なのがカズマだった。敢えて言うなら、エリックもこちら側になるだろうか。
状況についていけず、気持ちの切替えもできない。
なにが適切な行動なのか判断することもできず、従って自分の仕事を見つけることもかなわぬまま、ただきょろきょろと他人の顔を見て回るしかない。
即ち、戦いの素人の反応である。
「先生!」
見かねたか、年少のオックスに声をかけられる。
「馬車を下ろして、使っていた封貝で僕らの前に壁を作ることは可能ですか」
「あ、うん。できると思う。待って」
カズマは慌てた様子で数度小刻みに首を縦に振った。
汗を拭っているのか、両の手のひらを盛んに服の裾にこすりつけている。
「あっ――と、じゃあ下ろします」
カズマが宣言したと同時、全員が迎撃の構えを維持したままその場で踏ん張る。
馬車は浮上時とはうらはらに、ゆっくりとした速度で降下し、そっと着地を決めた。
気のせいだろうか。
先程から汗が止まらないが、一方で肌は粟立ち、筋肉にも強張りが感じられる。
そして、時おり全身を駆け抜けていく悪寒めいた震え。油ぎれを起こしたような関節のぎこちなさ……
頬に感じるひやりとしたこの空気の冷たさは、もはや気のせいではあり得ない。
周囲の気温が、一気に低下しているのだ。吐く息が白く見えないのが不思議なほどに。
「――来るぞッ!」
突然、オキシオとサイトが異口同音に叫んだ。
瞬間、カーテンを開け放ったかのように、接近しつつあった駆け音がいきなりクリアになった。
エリックは漏れかかる悲鳴を喉の奥で押し殺し、可能な限り素早く剣を抜いた。
何も見えない濃密な闇の世界を、カンテラと三本の松明が半径五メートルほどの光の輪を生み出している。
エリックにとっては、その光と闇との境界こそ生と死を分かつ一線に他ならない。
だが、唐突に現れた獣は、そんなものに捕らわれはしなかった。
エリックをもってしても反応しきれない程の速度で、気付ばそれを跨ぎ越えていた。
最初に見えたのは、血がこびりつく不潔に黄ばんだ牙の群れだった。
腐敗した肉は頭蓋から半分以上が爛れ落ち、白い頭蓋が剥き出しになっている。
眼球など柔らかい部分は真っ先に鳥類あたりの餌食になったのだろう。
落ちくぼんだ眼窩は、獲物であるはずのエリックすら見ていない。
火に飛び入る夏の虫のように、ただ生者の魂に飛びついたとしか思えない動きだった。
サイズ、形状からして元になっているものは犬、もしくは狼。
だが、サイトの言う通り、あれらのような可愛いものではない。
「――ッ!」
食い付かれる。
恐怖とおぞましさに、エリックは握った剣の存在も忘れて仰け反った。
それは死球に対して肉体に刷り込まれた条件反射であったのかもしれない。無意識の動きだった。
無様だが、微動だにできないよりはましだった。
斜め後ろに倒れ込み、止めていた息を吐く。
モンスターがいるとは聞いていた。
話だけではない。オルビスそーに来た初日から、恐竜のように巨大な空飛ぶ魔物の姿をこの目で見もした。
だが、それらはどちらも現実感を欠いており、具体的な脅威として実感と結びつけられることはなかったのかもしれない。
内臓から痙攣するような震えが伝播し、今、エリックの全身を揺らしていた。
歯の根が合わず、ガチガチと不快な音をあげている。
――不死の魔物――!
エリックは戦慄におののきながら、横倒しになっていた身体を反転させた。
両手を背中の後ろにつき、尻餅の体勢のまま足を昆虫のように動かして後退する。
いつの間に落したのか、鞘から抜いていた剣はすぐそこに転がっていた。
――怪物は……
慌てて顔を上げた瞬間、頭上でブツッという小気味の良い音が聞こえた。
ベルヌーイ曲線だかなんだかの原理を応用した良く切れる事務はさみで、ダンボールを勢いよく断ち切ったかのような音だった。
次いで、かがみ餅でも落ちたがごとく、ぼとんと重たい音を立てて何らかの落下物が荷車の底板を叩いた。
それは勢いのわりにバウンドすることもなく、ごろと一回転半してエリックが広げた足の間に近付き、止まった。
斬り落された、犬科の生首だった。
否、既に腐敗が進行し、半分以上も白骨化が進んでいる以上〝生〟とつくのはおかしいか――。
エリックはどこか現実逃避的に、そんなことを思った。
だが、不死の生物はその逃避を許さない。
首だけになりつつも動きだし、ゆっくりと方向転換をはじめ――エリックを射程に収めようとしている。
と、それを真上から振ってきた足が打ち砕いた。
カラテ家が瓦を打ち砕くような、躊躇のない破砕だった。
頭蓋が勢いよく陥没し、腐肉が残った毛皮ごとびちゃりと飛び散る。
抜け落ちた牙の一つが勢いよく底板を滑り、エリックのくるぶしに当たって動きを止まった。
「エリック殿、大丈夫ですか――?」
ボーイソプラノの声が気遣わしげに問い、声と共に手を差し伸べてくる。
それを思わず握り替えしながら、「あぁ」とエリックは間抜けなかすれ声で返した。
そのままオックスの支えを借りて、立ち上がる。
「カズマ殿、早く! 封貝をッ」
オックスの背後では、最前列で壁役を買って出たサイトが、犬科アンデッドを迎え撃っている。
「……っ、フォク……」
カズマがつっかえながら、自棄っぱちのように叫んだ。
「フォックスツー!」
主の求めに応じ、先程まで馬車を支えていた封貝が一斉に動き出した。
二〇個近い球体が、飛びかかってくる無数のアンデッドと、前衛をつとめるオキシオ、サイトの間に割り込み、一枚の壁を作るように整列していく。
もちろん、それはサイコロの目のように隙間だらけのマトリクスである。
しかし、怪物が地を蹴り飛びかかってくると、その部分の隙間だけを絶妙に狭め、前衛にその牙が届くのを未然に防いでいく。
最初こそ、反応が遅れて壁を突破されるケースが目立ったものの、前衛を務めるオキシオたちは終始、安定していた。
カズマの失敗など織込み済みというようなよどみない動きで、淡々と状況に対応していく。
この頼もしさにカズマも次第に冷静さを取り戻していき、伴って戦局は大きく人間側に傾いていった。
壁が効率よく魔物の跳躍を潰し始めると、動きが止まったその一瞬を、歴戦のオキシオ、サイト組が見逃すことなく突く。
パターンが確立されるや彼らは次々にアンデッドたちを屠っていき、ほとんどノンストップで最後の一匹までもを完全沈黙させるに到った。
アンデッドの群れは、ここに真の死を迎えたのである。
もちろん、エリックも指をくわえて見ていたわけではない。
後半は後衛として戦線に加わり、主にサイトのバックアップに回った。
彼が切り落したアンデッドの肉片を二度と動き出さないよう、潰して回るという裏方がエリックの仕事だった。
「あの……それで、今のこの化物は――?」
全てが終わったあと、カズマが口元をひきつらせながら先住民たちに問いかけた。
同じ疑問を抱いていたエリックは黙って耳をそばだて、返答を待った。
「これは屍狼です」
荷車の上に散らばった肉片、骨片を掃除しながらオックスが言った。
対応は後始末までを言うものであり、我々はそれに精通している。
そう、言葉より雄弁に語る働きぶりだった。
「――ええと」
カズマが棒立ちのまま質問を重ねる。
「僕らの故郷ではこういう動く死体をゾンビだとかアンデッドだとかいって恐れたりするんだけど……似たような物だと解釈して良いのかな」
「あ、先生の世界にもいるんですか?」
オックスが一瞬手を止め、エリックとカズマの方を見た。
そのあっけらかんとした彼の口調と表情は、ひとつの事実を強烈に示唆していた。
同じものを感じ取ったのだろう。
エリックとカズマは気付けば顔を見合わせていた。
「いるかいないかは別として、僕らの世界では一生のうち、一度も遭遇しない人がほとんどだと思うんだけど、オルビスソーではちょっと事情が違うみたいだね?」
「先生のおっしゃる通りなら、確かに少し事情が違うかもしれませんね。オルビスソーでは逆に、一生のうち一度も屍獣に遭遇せずに済む方が珍しいでしょうから」
「だよねー……」
続くオックスらの話を総合すると、オルビスソーでは死んだ生物がアンデッド化することは日常的なことであるとの事だった。
いわく、土地には「陽相」と「陰相」の二つの顔がある。
どちらが良い、正しいというものではない。
それは昼が陽であり、夜が陰であることからも知ることができる。
人間は一般的に陽である晴れを好む傾向にあるが、続けば干ばつになるだろう。
故に、陰である雨も絶対に必要なのものだ。
「何事もバランスなんです。どちらかに問題があるのではなく、どちらかに偏りすぎることが良くない。僕らがオクスゥが信仰するイレス様も直々にそう仰っています」
だが、バランスの崩壊は残念ながらしばしば起る。
大地を流れる陽のエネルギィの流れ〈龍脈〉は、その上に作られた畑に力を与え、作物を良く育てる。
龍脈を流れる力の吹き溜まり〈龍穴〉ともなればその恩恵は絶大で、そこに街を気付けば千年の反映が約束されるとも言われる。
かくてバランスの重要性を知りつつ、人間は陽ばかりを追い求めてしまうのだ。
だから逆に、人間や生物が忌み嫌う――死を象徴する場所や不毛の荒野、廃墟などは強い陰気を帯びる。
これに、〈龍脈〉と対を成す陰のエネルギィの流れ〈玄脈〉の力が合わさると、その土地の陰相化は急速に進行し、やがてバランス崩壊が起るまでに属性が偏ってしまう。
「そうして起るのが陰相転化です。これが発生すると、そこで死んだ生物はアンデッドとして復活し、屍獣と化して陽――つまり生のエネルギィを持つ、普通の生命に襲いかかるようになります」
「えっ……、ちょっとタイム」
思わずエリックは言った。
うまく通訳されなかったのか、「タイム?」と怪訝そうに首を捻るオクスゥたちを尻目に、エリックはカズマと再び顔を見合わせた。
陰陽説に近い話を別にすれば、屍獣だの陰相転化だのは初めて耳にすることばかりだ。
「あの、確認したいんだけど」
エリックはオクスゥたちに向け、再び口を開いた。
「今、ここにそのシジューだとかいうアンデッドが現れたわけですよね。でもその理屈でいくと、ここはそのバランスが崩壊して陰相に墜ちちゃった土地的解釈になるような気がするんですけど……」
気のせいですよね。
言外に漂わせたすがるような確認は、しかし返された無慈悲な一言であっさりと粉砕されることになる。
「その解釈で間違いないでしょう」
サイトが事務的にも聞こえる口調で続けた。
「そも、ここは近年、囚人を運んで処刑場へ向かうためだけに使われている森です。人々は気味悪がって近寄りませんから、それを逆手に犯罪者などが一時的に身を隠す時などにも使われるているとか。必然、土地は陰気を帯びていく。決定的な陰相転化に陥らずとも、長く陰気にさらされていれば、こうした屍獣は発生します。陰相転化はそれが爆発的に進行し、長期にわたって戻らなくなるだけですので」
もう何度目になるか、またカズマと目が合った。
その表情から、彼が同じ事を考えているのがなぜか分かった。
自分の死はまだ具体的にイメージできていないが、今日の奪還作戦でそれが現実のものになる可能性は否定できない。
覚悟しているとは言い切れないが、理解はしているつもりであった。
だが、こうして半分、肉を腐り落してまで動き回る化物を見たあとでは、かき集めたなけなしの勇気さえもなくしそうになる。
明日、護士組の封貝使いたちに反撃され、惨殺されるようなことがあれば――
生ける屍として、今度は自分が屍獣の仲間入りすることになるかもしれないのだ。
隣で、カズマが大きく嘆息する音が聞こえた。
気持ちはエリックも共にしていた。
痛いほどよく分かった。
「――とにかく、簡単には死ねない理由が個人的にまたひとつ増えたことは確かみたいです。勝ち目は薄いですけど、どうにかして頑張りましょう」
深刻な顔でつぶやくカズマの声に、エリックは深々と頷いた。心から同意できた。
死ぬわけにはいかない。
誰ひとり欠くことなく、ナージャを取り返さねばならない。
だがその想いとは裏腹に、自分たちの顔が血の気を失い、早くも屍獣を思わせるほど青白いものになっていることにエリックは気付いていた。
▼あとがき
おかしいな……1話あたりの容量を減らして、毎週更新とかにペースあげようと思ってたのに(挨拶)
話は変わりまして、東京のど真ん中を馬車が走ってる件。
あれは事実で、YouTubeにて「信任状捧呈式」で検索かければ該当する動画が見つかると思います。
▼データファイル
【クーネカップ】
・女神
・月/夜/魔術(静寂)/知識/谷/霧/敵意/不和/予言/誘惑/幻惑(催眠)/黒曜石
非常に強大な力を持つ存在で、様々な姿と複数の神性を同居させる複雑な性格の神。
魔術・知識・予言を司ることから魔術師、月・夜・誘惑・幻惑などを司ることから娼婦などに信仰される。
一説によると女神だが、性別不詳のジャガーに似た獣の姿を良くとるなど、そもそも特定の性別をもたないとの見解が主流である。
傍らの王、霜のたてがみを駆る者、影の風、すべてを知る者、両方の敵、高貴な魔術師など多くの別名を持つ。
人間の精神に関心を持ち、健康でありながら鬱屈した側面を持つ多面的な人間に好んで接近し、戯れに強大な力や不和の種を授け、もたらされた混乱を糧にすると言われる。




