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神の吹かせる風  作者: わた
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秘密-黒の過去2

夜道。雨に打たれながら、ラインは暗い河岸を歩く。

血にぬれた短刀を握る手と、返り血を浴びた腹を、雨が洗い流してくれる。


けれど。いくら血が流れ落ちようと、汚れは取れない。深く深く肌に染み込み、魂までも染めていく。


冷たい雨とともに、ぬるい涙が頬を伝う。


涙さえも、心を洗ってはくれない。


日差しを受け、あんなに光り輝いていた河面も、今は黒く濁っている。




アジトに帰ったラインを迎えるのは、床にぶちまけられた食事。腐りかけのパンと、粗末な野菜くずが少し。

これが、今日の罰。と言っても本当にひどいときは一週間何も食べさせてもらえないので、まだいい方だ。


嘲笑うような周囲の視線を無視し、ラインは散らばる食糧をかき抱く。そのまま、自室に飛び込んだ。


狭い、打ちっぱなしの石の部屋には、ベッドすらない。薄い毛布が一枚だけ。けれど、ひとりきりになれる空間は、ほんの少し、ラインに平穏を与えてくれた。


必死にパンを咀嚼し、なんとかのみ込む。胃に物を入れないと、すぐにも倒れてしまいそうだった。嫌な匂いが鼻に広がるけれど、食べないことには弱るだけ。


「ライン」


低く名前を呼ばれる。

無遠慮に扉が開かれ、ネイトが顔を覗かせた。


「来い」


無理やり腕を掴まれ、連れていかされた場所は、ゼフィロスの部屋。

また怒られ、痛めつけられるのかと体を強張らせたライン。だがゼフィロスの顔は、意外にも機嫌よさげだった。


「おう、ライン。名誉挽回のチャンスだ」


ゼフィロスと共に部屋に居たのは、見たこともない人物だった。長い髪を肩まで垂らした、若い男だ。美しい青年ではあったが、しんと静まった薄い藍色の瞳が、彼に対して言いようもない恐怖を感じさせた。


「仕事が入ったぞ。巫女を殺すため、神落としが動く」


ラインは全身を鞭で打たれたような衝撃に襲われた。


「俺たちが神殿の門番を払う。お前は潜り込んで、神殿内を引っ掻き回せ。それだけでいい」


要は巫女が無防備になればよい、ということだ。巫女の騎士を引き付けることさえできれば。


ラインは体の震えを悟られないように、なんとか頷く。


巫女に願いを届けに、毎日神殿に通っているのだと言った、フロウの笑顔が嫌でも浮かぶ。彼と並んで微笑むセルースの顔も。

巫女が失われたら、彼らの希望は潰えてしまう。そんなむごいことの片棒を、自分は担ぐのか。


けれど従わなかったら、どうなるか。そんなことはわかりきっている。


「巫女は、こいつが殺す。神落としの首領だ。名前はリレット。お前はこいつの指示で動け」


リレット。なんて嘘くさい名前だと、ラインは訝しげに男を睨む。だが当の本人は、いたって好意的に言った。


「君の髪は、闇に乗じるには最適だな」


この男の瞳は、何も見ていないかのようだった。ただ、ラインのいる空間に注がれているだけで、ラインそのものは見ていない。その色の薄い瞳に、はっと気づく。

見ていないのではなく、見えないのだ、と。

リレットは鈍く笑う。


「視覚なんて、いくらでも代用が効くんだよ」


気に入らない笑顔だ、と思った。





深夜の神殿前。ゼフィロスと数名のカロルメンバーが、路地裏で爆弾を爆発させた。


凄まじい音と光に、神殿の門を守っていた兵士たちが駆けつける。

その隙にラインは門を乗り越え、鍵を破壊した。神落としの一団が、一気に神殿内に侵入する。

リレットが、ラインに頷きかける。先に行って、騒ぎを起こせ、という命令だ。


ラインは駆け出した。渡された銃剣で撃ちながら、暗く、広い廊下を走る。


大理石でできた柱を、女神の使いを模した石像を、夢中で撃ち抜く。けれど、だんだん体の力が抜け、ついにはへたりこんでしまう。


月の光が射し込む廊下で、ラインは涙を流した。


巫女を殺して何になる。


ラインは立ち上がり、頬を拭う。そして、目一杯の力を込めて、腹の底から叫んだ。


「逃げろ!! 神落としが巫女を狙っている!!」





河辺に建つ粗末な小屋で、フロウとセルースは暮らしていた。小さな物乞いだったふたりのために、憐れんだ誰かが作ってくれた小屋だ。幼いころから暮らしているため、小屋はボロボロでかなり手狭になったが、それでも居心地のよい我が家には変わりなかった。


「セルース、具合はどう?」


セルースは最近、体調がよさげだった。いつも笑顔を浮かべ、フロウの問いに、


「大丈夫。巫女様は私をお見捨てにならないわ」


そう嬉しそうに答える。

だからフロウも安心して、にっこり笑う。するとセルースはますます嬉しそうに、


「ねえフロウ。あなた、いつだって笑っていなくちゃダメよ。不機嫌になったり、悲しそうにしていたら、私が心配するから」


その無邪気な命令は、フロウの心を優しく撫で付け包み込む。

小さなセルースがたまらなく愛しく、フロウはそっと彼女の体を抱きしめた。なんて細く小さいのだろう、とひやりとする。


「セルースも、いつも笑っていなくちゃだめ。ずっと、ずっと、僕の前で」

「うん……」


セルースも、優しくフロウの背中に腕をまわす。


「大丈夫よ。私、フロウのそばからいなくなったりしない」


やわらかく愛らしい声が、フロウの耳元で囁かれる。


「ずっと、一緒だから……だから、笑っていてね、フロウ」


ことん、とセルースの頭がもたれかかる。


「……セルース?」


セルースの体の力が抜かれ、動かなくなった。ぐったりと寄りかかってくるセルースを覗きこみ、フロウは青ざめる。


「セルース。起きて、セルース」


セルースは口元に微かな笑みの名残を残し、目を閉じていた。


フロウは頬に流れる涙を感じ、力なく首をふる。


泣いてはいけない。泣いたら、認めることになる。セルースが、もう起きないと、認めてしまうことになる。

泣くもんか。セルースはここにいる。ずっと一緒にいると、誓ったばかりではないか。


「いやだ……」


フロウはきつくセルースの体を抱きしめ、髪越しにうなじに顔をうずめた。涙は無情にも、次々に流れてくる。


「なんで……なんで、セルース……」


祈りの巫女は、神様に願いを届けてくれたのではなかったのか。


フロウはセルースを抱えて、小屋を飛び出した。


この憐れな小さい幼なじみを、救ってほしい。だが、死人を甦らせることが不可能なことくらいわかっている。

救ってほしいのは、フロウの心だ。はち切れそうなほどに辛いこの思いを、どうか少しでも救ってほしい。でないと、狂ってしまいそうだった。


「……巫女……」


神に思いを届けられる、唯一の存在。


フロウはよろよろと、神殿に向かって歩き出した。愛しい、セルースの体を抱えたまま。





神殿では、ラインの警告により巫女の騎士が動いた。

たちまち高度な結界が神殿に張られ、神落としは逃げることができなくなる。


聖堂で祈りを捧げていたリフィルのもとに、ツルハとリーンハルトが飛び込んできた。


「リフィル様、神落としが神殿に入り込みました。危険です、こちらへ!!」


リフィルは驚き、それから素早く尋ねた。


「ワープは?」


ふたりの騎士は顔を見合わせ、ツルハが答える。


「私が行きます。リフィル様はリーンハルトと共に逃げてください」

「わかったわ。頼んだわよ!!」


聖堂を出たツルハはリフィルの弟子を助けに駆け出し、リフィルはリーンハルトと共に廊下を行く。


「あなたたち、流石ね。神落としの侵入を悟るなんて」

「いえいえ。教えてもらったんですよ。男の子にね」

「男の子?」


リーンハルトはいつも通りの呑気な笑みを浮かべながら、


「大きな声で教えてくれましたよ。リフィル様、聞こえませんでした?」

「……聞こえないわよ」


聖堂にいると、外の騒ぎなどまるでわからないのだ。それがわかっていながら、リーンハルトは呑気ですねえ、などと笑う。この男にだけは言われたくない。


それにしても、その男の子というのが気になる。


「その子、どこにいるの?」

「それよりも、優先すべきは貴女の命の安全です」


リーンハルトは穏やかに、それでも彼が時折見せる、抗いがたい力を持った微笑みを浮かべる。


「命じてくだされば、いつでも探しに行きますよ。貴女を逃がした後で」

「……もういいわかった。ならさっさとあたしを安全な場所に送り届けなさい」

「もちろん、仰せのままに」


リフィルは歯に力を込め、言い様のない思いを噛み締める。

巫女の命の重さはわかる。だが、何よりも優先すべきものだと言われると、どうしてもやりきれなくなる。

半ば八つ当たりでリーンハルトの背中を殴り、リフィルは長いため息をつく。


「お気持ちはわかりますがね、リフィル様。俺に当たらないでください」

「……うるさい」




神落としは逃げ場を失い、たちまち神殿の兵士に捕らえられた。


ただ、首領のリレットは落ち着き払い、追っ手から逃れて神殿内を闊歩していた。

信じられないほどに堂々と歩き、やって来たのはラインが警告の声を発した廊下。


「やってくれたな小僧」


力なく壁にもたれるラインを、いやに穏やかに見つめる。


「おかげでまた一からやりなおしだ。ゼフィロスからどんな罰があるか、楽しみにしておけ」

「…………」


リレットは冷たく微笑む。ラインが瞬きをした次の瞬間には、もうその姿は消えていた。


ラインはよろめきながら立ち上がり、神殿の外を目指した。ゼフィロスに見つかれば命はないかもしれない。だが、歩みは止まらなかった。



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