Grimoire 0〈記憶〉
最初に異変に気づいたのは、無線の沈黙だった。
「第三中隊、応答しろ。第三中隊」
砲手席のレンズ越しに、ノルド曹長は平原の向こうを見ていた。霧の薄い朝だった。三十二両の戦車が横一列に展開し、エンジンの低い唸りが地面を震わせている。イプラス共和国第七戦車師団、その右翼。敵の歩兵陣地を砲撃で叩く、ただそれだけの、退屈なはずの任務だった。
「左翼で何かあったな」と車長が言った。
「煙が見えます。……三本、いや四本」
「敵の砲撃か」
「砲声がありません」
答えは返らなかった。かわりに、遠くで何かが光った。
一度、二度。発砲炎にしては小さく、間隔が短すぎた。
次の瞬間、隣の車両が砲塔ごと吹き飛んだ。
車内の誰も、声を出せなかった。ノルドは反射的に砲塔を旋回させ、光の方向へ砲口を向けた。レンズの中に、それが入ってきた。
人の形をしていた。
背丈は戦車の砲塔よりわずかに高い。五メートルほどだろうか。二本の脚で立っているように見えた。
だが、立っていなかった。
脚の付け根から展開した車輪が地面を噛み、それは歩くのではなく、滑るように走っていた。
時速はどれほどか見当もつかない。
戦車が決して出せない速さで、決して取れない軌道を描いて、こちらへ近づいてくる。
「撃て!」
ノルドはトリガーを引いた。徹甲弾は敵の進行方向へ先回りするように飛んだ。教本どおりの偏差射撃だった。
その瞬間、敵は止まった。
いや、止まったのではない。車輪を軸にして、その場で一八〇度、向きを変えたのだ。弾は敵がいたはずの空間を通過し、地面に突き刺さった。
「……そんな動きが」
「再装填急げ!」
車長の叫びが遠く聞こえた。再装填に六秒かかる。その六秒で、敵は二両を潰した。
ノルドは見た。砲塔に載った小さな砲が、驚くほど無造作に、順番に、味方の戦車を撃ち抜いていく。
一両あたり一秒もかからなかった。反撃は一発も当たらなかった。
まるで、こちらの弾がどこへ飛ぶかを、最初から知っているようだった。
(違う。知っているんじゃない。こちらの射撃を待っていない。)
(撃たれる前に、もう別の場所にいる)
戦車が戦車であるために必要だったすべての前提が、いま目の前で、一台の機械によって、崩れていく。
「後退しろ!退避!退避!」
「全速力で後退中!...駄目です!離れません!」
そのとおりだった。逃げられる相手ではなかった。
敵の影が、レンズいっぱいに広がった。
車体が大きく揺れた。衝撃のあと、ノルドの視界は傾き、赤く染まった。
聞こえていた無線の声が、一つずつ遠のいていく。車長の名を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
痛みはなかった。かわりに、いくつもの光景が浮かんでは消えた。
配属初日の兵舎。雨の日の整備。仲間と分けあった缶詰。故郷の駅。
(ああ、そうか。俺は、ここで)
そう思ったとき、不思議な感覚があった。
自分が消えていく、という感覚ではなかった。むしろ、どこかへ流れ出していく感覚だった。
この朝の光景が、敵の動きが、再装填の六秒が、仲間たちの最期の声が。
一つの重さを持ったまま、誰かの手のひらへ移っていく。
どこへ。
誰の手へ。
答えは分からなかった。ノルドの意識は、そこで途切れた。
後方二十キロの司令部で、一人の若い士官が、不意に立ち止まった。
通信卓の前だった。壊滅の報告が、次々と入ってきている。
第七戦車師団、応答なし。右翼、全滅。左翼、確認できず。
参謀たちは地図の上で赤い印を増やし、誰かが「何が起きた」と繰り返していた。
士官は何も聞いていなかった。
彼は見ていた。見たことのない光景を。霧の平原。
砲手席のレンズ。人の形をした機械が、その場で向きを変える、あの瞬間を。
それは彼の記憶ではなかった。だが、彼の記憶と同じ確かさで、そこにあった。
「……少佐?」
部下の声で我に返った。額に汗が滲んでいた。
「少佐、顔色が」
「問題ない。気にしないでくれ」と士官は答えた。声は驚くほど落ち着いていた。
彼は地図の前へ歩いた。参謀たちの議論は続いていた。
新型の重戦車か、航空攻撃か、化学兵器か。誰もが、戦車の延長線上にある答えを探していた。
「違います」
士官の声に、部屋が静まった。
「戦車ではありません。あれは、戦車とは別のものです。そして」
士官は一度、言葉を切った。頭の奥に、誰かの最後の景色が残っていた。
名前も知らない砲手の、再装填の六秒が。
「そして、我々も同じものを持たなければなりません。それも、できるだけ早く」
上官は眉をひそめた。「根拠は」
士官は答えられなかった。見たのだと言って、誰が信じるだろう。
だから彼は、ただ静かに繰り返した。
「持たなければなりません。次に撃たれる前に」
窓の外では、霧が晴れ始めていた。
その日、イプラス共和国は一つの師団を失い、一つの決断を得た。
それが、すべての始まりだった。




