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終わらぬ転落  作者: ありり
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汗の跡が乾くまで①

大理石の床に、汗がぽたりと落ちた。


佐川は両手に食い込むほどの買い物袋を提げ、息を荒げながら玄関ホールに立っていた。階段で上がってきたせいで、胸元まで汗が滲み、茶色のカーディガンは脇と背中が濃く変色している。後れ毛が頬に張りつき、呼吸のたびにわずかに肩が揺れた。


その正面に立つ妻は、黒のニットにデニムという簡素な装いでありながら、まるで玉座に座る女王のような威圧感を放っていた。


妻「……遅いわね」


低く、冷え切った声。


佐川は視線を下げたまま答える。


佐川「申し訳ございません……エレベーターが点検中で……階段で……」


言い終わる前に、妻の指先がすっと顎にかかった。


細い指が、ぐいと持ち上げる。


妻「言い訳は聞いていないわ。持ち方が悪いと言っているの」


佐川の視線が無理やり引き上げられる。汗に濡れた睫毛が震える。


妻「その程度の重さで、そんな顔をするの?」


佐川「……申し訳、ございません」


妻「しっかり持ちなさい。肩を落とすな。背筋を伸ばして」


顎をつままれたまま、佐川は必死に背を伸ばす。袋が揺れ、野菜が擦れる音がした。


妻は無言で一つの紙袋に手を入れる。中から真っ赤なトマトを一つ取り出した。


妻「これ、潰れたらどうするつもり?」


佐川「……確認不足でございます」


妻「そう」


次の瞬間、妻の指がわずかに緩み、トマトが床に落ちた。


ころり、と音を立てて転がる。


妻「拾いなさい」


冷たい命令。


佐川は袋を揺らさぬよう必死に屈もうとするが、重さで腕が震える。体勢を崩した瞬間――


ガンッ。


袋の中の瓶が縁に当たり、鈍い音が響いた。


妻の目が、ゆっくりと細くなる。


妻「今の音は?」


佐川「……っ、申し訳ございません……!」


妻「中身が割れていたらどう責任を取るの?」


佐川「……弁償、いたします」


妻「お前の借金はまだ二億。どこから弁償するの?」


沈黙。


佐川は床に膝をつき、トマトを両手で拾い上げた。汗が首筋を伝う。


妻はしゃがみ込み、彼女の濡れたカーディガンを指先でつまむ。


妻「見苦しいわね」


布地が湿って色が濃くなっている。


佐川「……申し訳ございません」


妻「そのカーディガン、脱げばいいと思っている?」


佐川の肩がぴくりと揺れる。


佐川「……いえ」


妻「当たり前でしょう」


妻は立ち上がる。


妻「しばらくそれを着ていなさい」


佐川「……はい」


妻「汗の跡が乾くまで。自分の無様さを自覚するために」


佐川は顔を伏せたまま、小さく答える。


佐川「かしこまりました」


妻「それと」


妻は再び顎を掴み、今度はさらに強く持ち上げる。


妻「顔を上げて返事をしなさい」


佐川「かしこまりました」


目にうっすら涙が滲むが、こぼさない。


妻「泣く資格はないわ。泣くのは、役に立ってからにしなさい」


佐川「……はい」


妻はバッグを片手に、ゆっくりと歩き出す。


妻「買い物はキッチンへ。トマトは洗ってから冷蔵庫。瓶は中身を確認して報告」


佐川「はい」


妻「床も拭いておきなさい。汗で汚れているわ」


佐川はその場で深く頭を下げる。カーディガンの背中に広がる濃い汗染みが、無言で彼女の屈辱を語っていた。


妻は振り返らずに言い放つ。


妻「お前は、失敗を重ねるためにここにいるのではない。使われるためにいるの」


廊下に足音が遠ざかる。


袋の持ち手が指に食い込み、赤く跡を残す。


佐川は小さく呟く。


佐川「……はい、奥様」


その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

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