女王の変化⑤ 〜佐川の胸の内〜
――新しいエプロンの布は、まだ少し硬い。
自室に戻った佐川は、鏡の前に立ったまま動けずにいた。
白いブラウス。
濃紺のスカート。
整えられた襟元。
指先でそっと生地を撫でる。
「……新しい。」
それだけの言葉が、胸の奥で波のように広がる。
奥様は、何も変わっていない声だった。
「許したわけでも、評価したわけでもない。」
「これは業務の一環。」
淡々と。
冷たくもなく、温かくもない。
それでも――
以前なら、与えられることなどなかった。
傷んだ制服を着続けるのも当然。
古びたエプロンで立つのも当然。
それが自分の立場だと、理解していた。
鏡の中の自分は、少しだけ違って見える。
「整っていなさい。」
その言葉が、頭の中で繰り返される。
整う。
罰ではなく。
叱責でもなく。
整える、という指示。
胸が、静かに締めつけられる。
感謝を述べようとした瞬間、遮られた。
「不要よ。」
当然だ、と佐川は思う。
奥様は感情を混ぜない。
混ぜないと決めている。
それでも――
あの一瞬、襟元を直された指先の感触。
ほんのわずかな距離。
怒りではなかった。
拒絶でもなかった。
ただ、整えるための手。
それが、かえって苦しい。
「私は、許されてはいない。」
小さく呟く。
けれど、追い出されてもいない。
新しい制服は、ここにいてよいという証なのか。
それとも、ただの合理性か。
答えは与えられない。
奥様のお腹に宿る命。
あの視線の一瞬の揺れ。
佐川は気づいている。
あの子のためだ、と。
自分のためではないことも、わかっている。
それでもいい、と心が言う。
「この家のため。」
奥様の言葉を反芻する。
この家に、自分はまだ必要とされている。
必要とされている限り、ここに立てる。
鏡の中の自分に向かって、背筋を伸ばす。
「姿勢。」
言われた通りに。
結び目をもう一度直す。
左右対称に。
「次からは最初から整えて。」
はい、と小さく返事をする。
誰もいない部屋で。
胸の奥に、かすかな熱が灯る。
感謝は伝えられなかった。
許しも与えられていない。
それでも――
新しい布の重みは、拒絶ではない。
「私は、この家で働く。」
静かに決意する。
奥様が穏やかでいられるように。
あの子が生まれたとき、冷たい空気が少しでも薄れるように。
自分にできるのは、整えることだけ。
涙は流さない。
ただ、深く一礼するように頭を下げる。
「ありがとうございます。」
声には出さない。
けれど、その言葉は確かに胸の中にあった。




