守るために壊す 〜佐川へ冷酷な理由〜
少し時は遡る。佐川が使用人になって二日後のこと。
夕暮れのタワーマンション最上階。
ガラス張りの窓の向こうに、無数のビルの灯りが浮かび始めている。
白いソファに腰掛けた夫は、片腕を背もたれに回し、もう一方の手で妻の顎をゆっくりと持ち上げた。
夫「……まだ、迷いがある顔をしているな」
低く、冷えた声だった。
妻は目を伏せる。
妻「迷ってなんかいません。ただ……佐川の顔を見ると、どうしても思い出すんです」
夫「あいつの元夫のことか」
夫の指先に力がこもる。
夫「……あの男が、お前に手を出そうとしたことを」
妻の瞳がわずかに揺れた。
妻「あのとき私は、あなたの使用人でした。何も持たない、ただの使用人。あの人は、それをいいことに……」
夫「やめろ」
夫の声が鋭く遮る。
夫「それ以上言うな。思い出すだけで、吐き気がする」
一瞬、部屋の空気が凍りつく。
夫は顎を持ち上げたまま、妻を真っ直ぐ見つめる。
夫「俺はな、あれを知ったときに決めた。佐川家を二度と立ち上がれないようにする、と」
妻「……ニ億円」
夫「ああ。借金は利息込みで膨れ上がる。佐川は一生かけても返せない。元夫も、今や見る影もない。佐川家は社会的信用も、資産も、何も残していない」
冷たい笑みが浮かぶ。
夫「優しくする理由がどこにある?」
妻は静かに息を吐いた。
妻「ないです。……私は、佐川には一切優しくできない。できるはずがない」
夫「当然だ」
夫は即答する。
夫「お前が傷ついた。俺の大事なものに触れようとした。その代償は、家ごと払わせる」
その言葉には、怒りではなく、徹底した決意が滲んでいた。
妻は、夫の胸に額を預ける。
妻「……あなたは、そこまでしてくれたのですね」
夫「当然だろう」
夫は腕を回し、強く引き寄せる。
夫「俺にとっては、お前だけだ。そのためなら手段を選ばない」
しばらく沈黙。
遠くで道具の触れ合う音。
メイド部屋兼掃除用具部屋で、佐川が後片付けをしているのだろう。
夫は淡々と続ける。
夫「佐川は駒だ。使える間は使う。使えなくなれば捨てる。それだけだ」
妻「……こき使ってよいのですね?」
夫「好きにしろ」
夫の視線は微動だにしない。
夫「お前が気に入らないなら、何度でもやり直しを命じろ。口答えすれば叱責しろ。嫌なら出て行けと言え。だが出て行けば、路頭に迷うだけだ」
冷酷な事実を、まるで天気の話のように告げる。
夫「佐川家が復活することはない。俺が許さない、絶対に」
妻はゆっくりと顔を上げる。
妻「……あなた、本当に怖い人」
夫「そうか?」
妻「ええ。でも、その冷酷さが……今は、心強いです」
夫はわずかに目を細める。
夫「お前は何もするな」
妻「え?」
夫「俺の機嫌だけ取っていればいい。他のことは考えるな」
指先が、再び顎を持ち上げる。
夫「俺が守る。俺が壊す。俺が決める」
妻の頬がわずかに赤くなる。
妻「……そんなふうに言われたら、ずるいわ」
夫「何がだ」
妻「嬉しいに決まってるでしょう」
夫は一瞬、意外そうに眉を動かす。
夫「……嬉しい?」
妻「ええ。あなたが、そこまで私を想ってくれていることが」
視線が絡み合う。
外の夜景が、二人を包む。
妻は小さく囁く。
妻「愛してくれて、ありがとう」
夫は、迷いなく答える。
夫「愛している」
その一言は、静かで、揺るぎない。
夫「お前以外は、どうでもいい」
妻は目を閉じ、微笑む。
妻「……私も、あなた以外どうでもいいわ」
そのとき、廊下の向こうで、かすかな物音がした。
佐川が、気配を消して通り過ぎる。
夫は振り向きもしない。
夫「聞いていようが構わない」
妻「え?」
夫「自分が何者か、思い知るだけだ」
ソファに深く腰を沈め、夫はグラスを手に取る。
夫「この家の頂点は、お前だ」
妻「……」
夫「佐川は床だ。踏みつけられる側だ」
妻は静かに息を整え、立ち上がる。
妻「明日から、容赦しません」
夫「好きにしろ」
妻「……本当によろしいのですね?」
夫「何度も言わせるな」
夫は微笑む。
夫「俺は、お前さえ笑っていればいい」
その笑みは優しい。
だが、同時に、誰よりも冷酷だった。
夜景の光が、二人の影を長く伸ばす。
その足元で、佐川の世界は、確実に崩れていくのだった。




