空いた薬指の夜③ 〜夫の胸の内〜
妻の「なんだか、もう一度プロポーズされるみたい」という言葉を聞いた瞬間――
俺の胸の奥で、静かに何かが定まった。
そのつもりだ。
口には出さない。
だが、まさにそれを考えていた。
最初のプロポーズは、正直に言えば勢いだった。
若さと、自信と、当然の未来。
「俺と結婚しろ」
断られるとは思っていなかった。
実際、断られなかった。
あのときは、愛情は確信だった。
失う想像をしていなかった。
だが今は違う。
時間が経ち、生活が積み重なり、
当たり前のように隣にいる存在になった。
それが、どれほど脆いものかも知っている。
商談で会った同級生の指輪を見たとき、
ふと考えた。
自分は、あの頃と同じ熱量で、
この女を選び続けているだろうか。
答えは――
選び直したい、だった。
義務でも、惰性でもなく。
改めて。
「今度、見に行くか」
あの一言には、軽さはなかった。
妻が目を見開き、
少しだけ震える声で喜んだとき。
ああ、まだこんな顔をするのか、と心が動いた。
“もう一度プロポーズされるみたい”
その言葉に、男は内心で静かに頷いた。
そうだ。
そのつもりだ。
形式だけではない。
指輪を新しくすることは、過去を塗り替えることではない。
だが、今の自分が、
今の妻を、改めて選ぶという意思表示になる。
最初は、未来を疑っていなかった。
今は、未来を守る覚悟がある。
そこが違う。
妻の左手を見る。
何もはまっていない薬指。
あそこに、今の自分が選んだ輪をはめたい。
誰のためでもない。
自分のためだ。
彼女が他の誰かに笑いかけるのを見るのは構わない。
だが、彼女の人生の中心にいるのは、自分だと示したい。
それは所有欲ではない。
選択だ。
何度でも選ぶ。
それが、男としての矜持だ。
床を磨く佐川の姿が、視界の端に入る。
かつて指輪を持ち、失った女。
人生は転ぶ。
だからこそ――
今、隣にいる存在を、再び手に取る。
「今週末でも空けておけ」
あれは命令ではない。
宣言だ。
その日、店で指輪を選び、
はめる瞬間に、言うつもりだ。
あのときよりも静かに。
だが、確実に。
“もう一度、俺と歩け”
言葉にしなくてもいい。
指に輪を通す、それだけで十分だ。
妻が自分の胸に寄り添う。
温かい。
守るというより、
離したくない、が正しい。
俺はそっと、妻の薬指を包む。
まだ何もないその場所に、
自分の意思で選んだ輪をはめる未来を、
はっきりと思い描きながら。




