空いた薬指の夜①
シャッター音が止み、リビングに再び静けさが戻る。
妻はスマホの画面を何度も指でなぞりながら、撮れたばかりの写真を眺めている。
妻「これ、本当にいい……あなた、こんな顔するのね」
夫「どんな顔だ」
妻「柔らかい顔。猫のときもだけど、私といるときも」
夫は肩をすくめる。
夫「自覚はない」
妻「あるわよ。ほら、この目」
妻が画面を差し出す。
夫は少し覗き込み、ふっと小さく息を吐く。
夫「……写真、増えたな」
妻「うん。もっと増やしたい」
妻は自然に夫の腕に指を絡める。
そのとき、夫の視線がふと妻の左手に落ちる。
細く整った指。
だが、薬指は空いている。
夫は自分の手元を見る。
同じく、何もない。
夫「……そういえば」
妻「なんですか?」
夫「俺たち、指輪は持ってるが、つけてないな」
妻は一瞬きょとんとし、それから小さく笑う。
妻「ああ……結婚指輪?」
夫「そうだ」
妻「ちゃんとありますよ。ジュエリーボックスの一番奥に」
夫「奥か」
妻「だって、普段つけないもの」
夫は妻の手を取り、薬指をなぞる。
夫「嫌だったのか?」
妻「うーん」
少し慌てた声。
妻「食事の準備のときに邪魔になるの。生地をこねたり、お肉を触ったり、洗い物したり……傷つけたくないし」
夫「そんなに神経質か」
妻「大事なものですし」
夫は静かに聞いている。
その足元では、佐川が黙々と床を磨いている。
雑巾の音が、一定のリズムで響く。
妻は続ける。
妻「それに、あなたもつけてなかったじゃない」
夫「あまり意識してなかっただけだ」
妻「でしょう?」
夫はソファに深くもたれかかる。
夫「だが、この前な」
妻「はい?」
夫「商談で同級生に会った」
妻「同級生?」
夫「ああ。高校のときの」
妻の眉がわずかに動く。
妻「……女性?」
夫「男だ」
妻は小さくほっと息を吐く。
夫「その男が、さりげなく指輪をしていてな」
妻「へえ」
夫「別に自慢する様子もなく、自然に」
夫は自分の左手を見つめる。
俺「悪くないと思った」
妻は目を丸くする。
妻「あなたが、そんなこと思うなんて」
夫「何だその言い方は」
妻「だって、形だけのものは好きじゃないでしょう?」
夫「形だけではないだろう」
夫の声は低いが、どこか穏やかだ。
夫「結婚しているという事実を、目に見える形で示すのも悪くない」
妻はじっと夫を見つめる。
妻「……それ、どういう意味?」
夫「どうもこうもない」
少し間を置いて、続ける。
夫「俺の隣にいるのが誰か、わかりやすくなる」
妻の胸が、わずかに高鳴る。
妻「今さらですか?」
俺「今さらでもいい」
夫は妻の手を再び取り、薬指を軽く握る。
夫「お前はどうだ」
妻「……つけたいか、と聞いてるの?」
夫「ああ」
妻は少し考える。
妻「正直に言うと……嬉しい」
夫「そうか」
妻「つけていたい、でも料理のときは外すかも」
夫「好きにしろ」
妻「なくしたら怒る?」
夫「なくさないだろう」
妻「絶対?」
夫「お前は物を大事にする」
妻は小さく笑う。
妻「あなたに言われると変な感じ」
夫は視線を窓の外に向ける。
夜景が完全に広がっている。
夫「今度、見に行くか」
妻「え?」
夫「指輪」
妻が息を止める。
夫「今のものじゃなくてもいい。サイズも変わってるかもしれない」
妻「……新しくですか?」
夫「そうだ」
妻「そんな、改めてなんて」
夫「嫌か?」
妻「嫌じゃないけど……」
妻の声は震えている。
妻「なんだか、もう一度プロポーズされるみたい」
夫はわずかに口元を上げる。
夫「大げさだ」
妻「だって、あなたから『見に行くか』なんて」
夫は肩をすくめる。
夫「ついでだ。商談もある」
妻「もう……」
妻は夫の胸を軽く叩く。
妻「でも、嬉しい」
夫「ならそれでいい」
妻「いつ行きますか?」
夫「今週末でも空けておけ」
妻「本当に?」
夫「ああ」
妻は思わず夫の腕に抱きつく。
妻「ありがとうございます」
夫はその頭を軽く撫でる。
妻「指輪も、写真も、旅行も……」
妻が小さく呟く。
妻「形に残るものが増えていきますね」
夫「記憶だけでは曖昧になる」
妻「私、全部覚えていたい」
夫「なら残せばいい」
そのやりとりを、佐川は床に視線を落としたまま聞いている。
毛玉だらけの茶色のカーディガン。
白いブラウスの袖口は少し擦り切れている。
薬指には、何もない。
雑巾を絞る手が、ほんの一瞬だけ止まる。
妻「佐川」
冷たい声。
佐川「はい、奥様」
妻「まだ終わらないの?」
佐川「まもなく終わります」
妻「丁寧にやりなさい」
佐川「……かしこまりました」
夫は何も言わない。
ただ妻の手を、離さなかった。
夜景の光が、二人の空いた薬指を淡く照らす。
その指に、やがて新しい輪がはまる未来を思い描きながら――
リビングには、再び床を磨く音だけが静かに響いていた。




