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終わらぬ転落  作者: ありり
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シャッター音と雑巾の音④ 〜妻の胸の内〜

スマホの画面を見つめながら、妻は自分の胸の奥が少しだけ静かになっていくのを感じていた。


猫カフェの写真。


子猫を抱いて笑う自分。

その隣で、わずかに目元を緩めている夫。


(こんな顔、私にしか見せない)


そう思った瞬間、胸の奥に小さな熱が灯る。


彼は普段、感情を大きく出さない。

仕事のときは冷静で、揺るがない。

外では隙を見せない。


でも、この写真の中の彼は違う。


自分の隣で、確かに柔らかい。


それが嬉しい。


「あなたの写真、もっと欲しいの」


あれは半分冗談のように言ったけれど、本音だった。


もっと欲しいのは、彼の写真だけじゃない。


並んでいる自分たちの姿。


肩が触れ合っている距離。

自然に寄り添っている瞬間。


(ちゃんと、隣にいるって思いたい)


この家では、私は強い立場にいる。

佐川を叱り、秩序を保ち、揺るがない妻でいる。


その役割は嫌いじゃない。


でも、強さは時々、孤独と隣り合わせだ。


広いリビング。

高い天井。

磨かれた床。


完璧な空間なのに、

ふとした瞬間に、ぽっかりと隙間ができる。


そんなとき、彼が隣にいると安心する。


何も言わなくてもいい。

腕が触れるだけでいい。


猫カフェの日、彼が自分を引き寄せて写真を撮ったとき、心の奥が少しほどけた。


(ああ、私はちゃんとここにいる)


彼の隣に。


写真は、その確認作業みたいなもの。


時間は流れる。

日常は繰り返される。


でも、写真は残る。


あの日の距離も、

あの日の笑顔も。


「もっと一緒に撮りたい」


それはわがままじゃない。


不安を消すためでもない。


ただ純粋に――


(この人と並んでいる自分が、好き)


彼の隣にいるときの自分は、

少しだけ柔らかい。

少しだけ素直。


それが心地いい。


彼が軽く顎を持ち上げる。

からかうような視線。


でもその手は、確かに優しい。


(大丈夫)


言葉にしなくても、そう思える。


この人は簡単に離れない。

自分も離れない。


だから、もっと写真を増やしたい。


旅行先でも。

このリビングでも。

何でもない日でも。


いつか見返したときに、


「この頃も幸せだったね」


そう笑えるように。


背後で雑巾の音が続く。


日常は変わらない。


でも、ソファの上の温度だけは確かに違う。


私はそっと夫の肩に頭を預ける。


(この距離を、これからも残していきたい)


それが、今の私の一番素直な気持ちだった。

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