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終わらぬ転落  作者: ありり
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シャッター音と雑巾の音② 〜佐川の胸の内〜

――床に映る自分の姿が、やけに歪んで見える。


雑巾を押し出すたびに、磨いたはずの床に夫婦の影が重なる。

寄り添う二人。触れ合う指先。笑い声。


(……あんなふうに、誰かと並んだことがあっただろうか)


猫カフェから一週間。

何も変わらない。叱責も、命令も、みすぼらしい茶色のカーディガンも。


毛玉のついた袖口が視界に入るたび、胸の奥がひりつく。


(昔は、私も……)


思考を止める。止めなければ、雑巾を握る手が震えるから。


奥様の声が刺さる。


「まだ終わらないの?」


(終わるわけがないでしょう)


心の中でだけ、小さく呟く。


終わらない。

床も、仕事も、立場も。


そして何より、あの二人の距離。


スマホのシャッター音が響くたび、胸の奥がざわつく。


(写真……)


自分は持っていない。

誰かと並んで笑う写真も、寄り添う写真も。


元夫と二人で、誕生日を祝った記憶もない。

もらったネックレスは、質屋で五十円。

売られてはいない。

奥様に没収されている。


(五十円……)


あの時、査定額を聞いた瞬間よりも、

今、目の前の二人の笑顔を見る方が苦しい。


「もっと一緒に撮りたい」


奥様の声が、柔らかく響く。


(羨ましい……)


思ってはいけない感情が、じわりと滲む。


自分が羨ましいと思っているのは、

高級な服でも、ソファでもない。


あの距離。


あの自然な触れ方。


あの“当然”という顔。


(私は……あんなふうに望まれたことがあった?)


雑巾を強く押し付ける。

腕が痛い。だがその痛みの方が楽だ。


叱られることには慣れている。

罵られることも。


だが、優しさを見せつけられることには、慣れていない。


旦那様が奥様の顎に触れる。

奥様が照れながら微笑む。


視線を上げてはいけないのに、つい見てしまう。


(……ああ)


胸の奥が、ゆっくりと沈む。


あの二人の絆は、確かに強まっている。


自分がこの家に来てから。

自分が跪き、床を磨き、叱責を受け続けてから。


(私は……何のためにここにいるの?)


借金。立場。契約。


理由はいくらでもある。


だが本音は、もっと単純かもしれない。


(居場所が、欲しかった)


誰かの隣に立てる場所。

写真に写っても許される位置。


今の自分は、背景だ。

床に映る影の一部。


スマホの中に保存されることはない。


「……終わりました」


声が小さくなるのは、疲れのせいだけではない。


窓を磨きながら、外の景色を見る。


広い空。遠くのビル群。


(あそこには、私の知らない世界があるのに)


それでも足はこの床から離れない。


茶色のカーディガンの袖を見つめる。


みすぼらしい。

擦り切れている。


でも――


(まだ、破れてはいない)


完全には、壊れていない。


胸の奥に残る、小さなもの。


羨望でも、悔しさでもない。


(いつか……)


その続きを、口に出すことはない。


ただ、静かに窓を磨く。


夫婦の笑い声が背中に刺さりながらも、


佐川は今日も、

この家の床に、自分の存在を擦りつけるように働き続ける。

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