夫婦の未来⑨
夜更け。
寝室の灯りは落とされ、ベッドサイドの間接照明だけが淡く二人を照らしている。
妻は夫の腕の中にいたが、まだ眠ってはいない。
妻「……覚えていますか」
ぽつりと、妻が言う。
夫「何を」
低い声が返る。
妻「私たちが会社員だった頃」
夫の口元がわずかに緩む。
夫「急だな」
妻「急に、思い出したのです」
少しだけ身体を離し、顔を上げる。
妻「あなた、いつも私の後ろを歩いていましたね」
夫「お前が先輩だったからな」
妻「そういう意味ではありません」
くすり、と小さく笑う。
妻「会議でも、外回りでも。私は前に立って、あなたは資料を持って」
夫「……あの頃は、お前が引っ張っていた」
夫は視線を天井へ向ける。
夫「俺は、ただ追いかけていた」
妻は目を細める。
妻「あなたは優秀な後輩でしたよ」
夫「慰めか」
妻「本心よ」
少し沈黙。
夫が低く言う。
夫「会社員時代から.......はじめて会ったときからずっと好きだった」
妻の呼吸が止まる。
妻「……」
夫「言わなかっただけだ」
妻「なぜ」
夫「立場があった」
淡々としているが、真実の重さがある。
夫「先輩に手を出す後輩、という図は面倒だろう」
妻は小さく笑う。
妻「あなたらしい理由ね」
夫「それに」
夫の声が少しだけ低くなる。
夫「お前はあの頃、眩しかった」
妻「……眩しい?」
夫「仕事も、人望も。俺よりずっと上にいた」
奥様は驚いたように見つめる。
妻「そんなふうに思っていたのですか」
夫「思っていた」
迷いなく。
夫「だから独立した」
妻「え?」
夫「横に並びたかった」
妻の胸が熱くなる。
妻「……そんな理由で?」
夫「まあ、理由は複数ある」
わずかに口元を上げる。
夫「だが、その一つだ」
妻は目を伏せる。
妻「独立のタイミングで、私を“使用人として雇う”なんて」
わざと強調する。
妻「ひどい男です」
夫は小さく笑う。
夫「側に置く方法が、それしかなかった」
妻「素直に誘えば良かったでしょう」
夫「断られたら困る」
即答。
妻は思わず声を立てて笑う。
妻「あなたが?」
夫「確実な手段を選んだだけだ」
合理的な男の告白。
妻は少し真面目な顔になる。
妻「最初は……悔しかったのですよ」
夫「分かっている」
妻「まさか、後輩に雇われるとは思いませんでした」
夫「だが離れなかった」
妻「ええ」
視線が絡む。
妻「……あなたの背中が、もう迷っていなかったから」
会社員時代は、自分が前を歩いていた。
独立後は、彼が前に立っていた。
迷いなく、決断し、責任を引き受ける姿。
妻「今は、あなたが引っ張ってくれています」
妻の声は穏やかだ。
妻「私は、隣を歩いているだけ」
夫は首を振る。
夫「違う」
妻「何がですか」
夫「今も引っ張っている」
妻は目を見開く。
夫「お前がいるから、俺は前に出られる」
静かな断言。
夫「会社員時代、俺はお前の背中を追った」
間。
「今も変わらない」
妻の喉が震える。
妻「……ずるい」
夫「何が」
妻「そんな言い方をされたら」
涙が滲みそうになる。
夫は額に軽く触れる。
「俺は昔からお前を選んでいる」
低く、はっきり。
夫「立場が変わっても、関係が変わっても」
妻は小さく笑う。
妻「使用人から妻になるなんて、想像していませんでした」
夫「俺は想像していた。というよりそのために使用人にした」
即答。
妻「ずっと?」
夫「ずっとだ」
沈黙。
優しい空気。
妻は夫の胸に顔を埋める。
妻「……私は、あなたを引っ張れていましたか」
夫「十分すぎるほど」
妻「今も?」
夫「今もだ」
背中を撫でる手が、温かい。
夫「会社員時代はお前が前を歩いた」
妻「ええ」
夫「今はたまに俺が前に出ることもある」
妻「はい」
夫「だが最終的に、同じ方向を見ている」
妻はゆっくりと目を閉じる。
妻「それで、十分ですね」
夫「ああ」
低く、穏やかに。
そして二人は唇を重ねる。
夜は静かに深まっていく。
かつては先輩と後輩だった二人。
立場が変わり、役割が変わり、関係が変わっても。
選び続けていることだけは、変わらない。
夫の腕の中で、妻は静かに微笑んだ。




