女王の誕生日①
5月の朝は、どこまでも澄んでいた。
だが玄関の空気だけは、氷のように冷えている。
佐川は小さな鞄を足元に置き、静かに立っていた。
薄いコート。
今夜の行き先は、決まっていない。
妻は廊下の奥からゆっくり歩いてくる。
妻「準備は終わった?」
佐川「……はい、奥様。」
妻「鍵は。」
震える手で差し出される鍵。
妻は受け取らない。
妻「床に置きなさい。」
一瞬ためらい、佐川は従う。
コト、と乾いた音。
夫は無言でそれを拾い、ポケットに入れる。
夫「一晩だ。」
低く、揺らがない声。
夫「外で過ごせ。」
佐川「承知しております。」
佐川は頭を下げる。
妻は冷たい視線を向けた。
妻「戻るかどうかは、お前次第。」
佐川「……戻らせていただきたいと願っております。」
妻「願いは必要ないわ。」
静かながら鋭い声。
妻「お前に必要なのは、“価値”。」
沈黙。
妻「行き先はあるの?」
佐川「……ございません。」
妻「泊まる場所は?」
佐川「……未定でございます。」
妻はわずかに笑う。
妻「それは気の毒ね。」
言葉だけが優しい。
妻「でも、私には関係ない。」
佐川の唇がかすかに震える。
佐川「本日は……お誕生日、おめでとうございます。」
妻は視線を外す。
妻「あなたに祝われても、何も変わらない。」
夫がドアを開ける。
夫「時間だ。」
外の光が差し込む。
佐川は深く頭を下げる。
夫「どうか……お二人が幸せでありますように。」
妻は静かに言い放つ。
妻「当然よ。あなたがいなくても。」
ドアが閉まる。
鍵が回る音。
完全な静寂。
妻はゆっくり息を吐く。
妻「ようやく、余計な音が消えたわ。」
夫は短く頷く。
地下駐車場。
黒い高級車のドアが開く。
妻は助手席に座り、シートベルトを締める。
エンジンが静かに目を覚ます。
車が滑り出す。
しばらく無言。
やがて妻が微笑む。
妻「この空間、好きです。」
夫「何がだ。」
妻「二人きりでいられること。」
窓の外の5月の光が流れる。
妻「誰の気配もない。あなたと私だけ。」
夫はハンドルを握ったまま言う。
夫「それが望みか。」
妻「ええ。」
小さく頷く。
妻「正直に言えば、あの女が戻らなくてもいいと思ってます」
夫は否定しない。
夫「寒い夜になるかもしれないぞ。」
妻「それは自分の選択の結果でしょう?」
妻の声は穏やかだ。
妻「私が気にする理由はありません」
信号で止まる。
赤い光が二人を照らす。
妻は夫を見つめる。
妻「ねえ。」
夫「何だ。」
妻「これまで、愛してくれてありがとう。」
夫の視線がわずかに動く。
夫「急だな。」
妻「ごめんなさい」
妻は静かに続ける。
妻「私、変わったでしょう。」
夫「……ああ。」
妻「人の心を少しずつ無くしてる気がするの。」
窓に映る自分の横顔。
妻「誰かが怯えることで安心している自分がいる。」
短い沈黙。
妻「それでもあなたは、隣にいる。」
妻はゆっくり言う。
妻「冷酷になりつつある私を、否定しない。」
夫は淡々と答える。
夫「どんなお前でも、愛情は変わらない。」
迷いのない声。
夫「優しいお前も、残酷なお前も。」
ハンドルを握る手は揺れない。
夫「俺が選んだのは、お前だ。」
妻の目がわずかに潤む。
妻「私が、あの女を追い出しても?」
夫「構わない。」
即答。
夫「必要なら、もっと冷たくなれ。」
車が再び走り出す。
5月の光がフロントガラスに広がる。
妻は小さく笑う。
妻「あなた、本当に私の味方ね。」
夫「当然だ。」
妻「戻らなければ?」
夫「それで終わりだ。」
妻「戻るなら?」
夫「今よりもっと働かせる」
妻は深く息を吸う。
妻「今日は、二人だけです」
夫が短く答える。
夫「ああ。」
妻は窓の外を見る。
青空が広がる。
妻「嬉しいの。」
静かな声。
妻「あなたと二人きりで誕生日を迎えられること」
夫は横目で見る。
夫「満足か。」
妻「ええ。」
そしてもう一度、ゆっくり言う。
妻「ありがとう。変わらず隣にいてくれて。」
夫の声は低い。
夫「離れる理由がない。」
車は光の中を滑る。
その閉じた空間だけが、
二人の世界だった。




