夫婦の未来③
玄関の扉が閉まった余韻が、まだ空気に残っている。
リビングには、使い終えた皿と、半分残ったワインの香り。
夫はゆっくりと振り返る。
夫「佐川」
佐川「……はい」
夫「全て片付けろ。グラスも、床も、厨房も。今日は念入りに掃除しておけ」
淡々とした声。
佐川「……承知いたしました」
夫「明日の朝までに、何も残すな」
佐川「はい」
佐川は頭を下げる。
視線を上げることはない。
夫はそれ以上何も言わず、廊下へ向かう。
寝室の前で、一瞬だけ立ち止まる。
軽くノック。
夫「入るぞ」
部屋は暗い。
カーテンは閉じられ、夜景も見えない。
妻はベッドの端に座っている。背中だけが見える。
夫は静かに近づく。
「……」
言葉はない。
そっと、背後から腕を回す。
その瞬間——
妻の肩が震えた。
「……っ」
堪えていたものが、崩れる。
妻「……どうして、今、抱きしめるのですか」
夫「泣いているからだ」
妻「泣いていません」
夫「泣いている」
妻の声が震える。
妻「……あの方、三人目だと」
夫「聞いた」
妻「羨ましくないと言えば、嘘になります」
夫は黙って抱きしめる。
妻の涙が、指に落ちる。
妻「私は、もうすぐ三十七です」
夫「知っている」
妻「可能性は、下がるばかりです」
夫「……」
妻「もし、あなたが」
声が途切れる。
妻「もし、あなたが子どもを望むのなら」
夫の腕がわずかに強くなる。
妻「遠慮なく、別れを言ってください」
静寂。
妻「あなたは、まだ若い」
夫「……」
妻「私は、あなたの人生を狭めたくない」
震える声。
妻「私のせいで、あなたの未来を削りたくないのです」
夫はゆっくりと顔を寄せる。
夫「誰がそんなことを望んだ」
妻「でも」
夫「聞け」
低い声。
妻は小さく息を呑む。
夫「俺にとって、お前が全てだ......ずっと好きなんだ、ずっと」
妻「……」
夫「子どもが欲しいかと問われれば、考えたことはある」
妻の身体が硬直する。
夫「だが」
一拍。
夫「お前のいない人生に意味はない」
静かな、しかし揺るがない声。
夫「家族は形じゃない」
妻「……」
夫「お前がいれば、それでいい」
妻の涙が止まらない。
妻「本当に?」
夫「ああ」
妻「後悔しませんか」
妻「しない」
妻「絶対に?」
夫「何度でも言う」
夫は顔を上げさせる。
夫「お前のいない未来は、想像もできない」
妻の唇が震える。
妻「私は……あなたに何も与えられていない」
夫「違う」
妻「私は——」
夫「お前は、俺の隣にいる」
強く抱き寄せる。
夫「それだけで十分だ」
妻の手が、ようやく夫の背に回る。
妻「……怖かった」
夫「何がだ」
妻「いつか、あなたが後悔するのではないかと」
夫「後悔するのは、お前を失った時だけだ」
再び、抱きしめる。
長く、深く。
妻は声を押し殺して泣く。
妻「……ありがとう」
夫「礼は要らない」
妻「それでも」
夫「黙っていろ」
しかしその声は優しい。
しばらく、言葉はない。
ただ抱きしめ続ける。
廊下の向こうでは、佐川が一人、皿を洗っている。
水音が響く。
だが寝室の中は、静かな呼吸だけ。
夫は、離さない。
妻も、離れない。
夜は深く、
抱擁だけが確かなものとしてそこにあった。




