夫婦の未来②
インターホンが鳴った。
静まり返った最上階のリビングに、澄んだ電子音が響く。
妻「来たわね」
妻はグラスの位置をわずかに整え、完璧な笑みを浮かべる。
白いエプロンを身につけた佐川は、その後ろで小さく頭を下げる。
妻「佐川、姿勢を正しなさい。今日は“お客様”よ」
佐川「……はい、奥様」
夫が玄関へ向かう。
扉が開く。
夫「久しぶりだな」
同級生「変わらないな、お前。相変わらず余裕の顔だ」
低く笑い合う声。
同級生は肩を叩きながら室内へ入る。
同級生「すごい眺めだ。やっぱり成功者は違う」
夫「景色はただの副産物だ」
同級生「はは、相変わらずだな」
リビングへ案内される。
妻が優雅に一礼する。
妻「本日はお越しいただきありがとうございます」
同級生「こちらこそ。いやぁ、奥様が美人だと聞いてはいたが、本当だな」
妻「お世辞がお上手ですこと」
柔らかな笑い。
佐川がワインを静かに注ぐ。
佐川「失礼いたします」
同級生「ありがとう。お手伝いさんもいるんだ、慣れた?」
佐川は一瞬だけ妻を見る。
妻が答える。
妻「ええ、必要なことは理解しております」
同級生「それは頼もしい」
夫がグラスを掲げる。
夫「まずは乾杯だな」
同級生「商談の成功を願って」
グラスが触れ合う。
前菜が運ばれる。
妻は座らない。
佐川も立ったまま、妻の小さな指示を受け続ける。
妻「佐川、パンを」
佐川「はい」
妻「温め直してから」
佐川「かしこまりました」
同級生が微笑む。
同級生「奥様も座られては?」
妻「いえ、主人のおもてなしが優先ですので」
同級生「完璧だな」
夫が淡々と口を開く。
夫「彼女は抜かりがない」
妻は静かに微笑む。
妻「主人が恥をかかぬようにするのが務めです」
話題は自然と学生時代へ移る。
同級生「ゼミでお前、徹夜してただろ」
夫「無駄は嫌いだ」
同級生「昔から冷静だったな」
夫「焦っても結果は変わらない」
和やかな笑い。
佐川は皿を下げ、次を並べる。
妻「ソースは最後に」
佐川「はい、奥様」
台所とリビングを往復する足音だけが静かに響く。
やがて話は仕事へ。
夫「今回の件だが」
夫「条件は悪くない」
同級生「こちらも同意だ」
夫「長期的に見れば双方に利益が出る」
同級生「決まりだな」
夫「正式な書類は後日送る」
同級生「頼む」
再びグラスが鳴る。
終始穏やかだった。
そして、食後。
同級生がふと笑う。
同級生「そういえばな」
夫「ん?」
同級生「うちは今度、三人目が生まれる」
一瞬、空気が静まる。
夫「三人目か」
同級生「ああ。上はもうすぐ小学生だ。下も元気でな。賑やかだぞ」
妻の手が止まる。
ワインを注ぐ動きがわずかに乱れる。
妻「それは……おめでとうございます」
声は整っている。
だが、視線は床に落ちたまま。
同級生は悪気なく続ける。
同級生「子どもはいいぞ。本当に。家に帰る理由が増える」
妻「……そうですか」
同級生「大変だが、それ以上のものがある」
夫は妻の横顔を見る。
わずかに俯いた睫毛。
指先が強くボトルを握っている。
同級生が笑う。
同級生「お前もどうだ? そろそろ賑やかに」
短い沈黙。
夫は穏やかに答える。
夫「授かりものだ」
同級生「はは、確かにな」
妻はそれ以上顔を上げない。
空気を切り替えるように、夫が立ち上がる。
同級生「今日はありがとう」
夫「もう帰るのか?」
同級生「十分だ。話もまとまった」
自然な流れで玄関へ。
同級生「商談はうまくいったな」
夫「ああ」
同級生「家族の話もな、悪くないぞ」
夫「覚えておく」
扉が閉まる。
静寂。
妻は何も言わず、リビングを出る。
ヒールの音が廊下に響く。
寝室の扉が静かに閉まった。
夫はその背中を見送る。
何も言わない。
リビングでは、佐川が一人、グラスを片付けている。
琥珀色の残り香だけが、
穏やかだったはずの夜に、重く残っていた。




