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終わらぬ転落  作者: ありり
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思い出の制服

玄関では、雑巾が大理石を擦る鈍い音が、一定のリズムで続いていた。


水を絞る音。

床に膝をつく衣擦れ。

佐川は無言で、ただ手を動かしている。


その音は、分厚いドアの向こうまでは届かない。


――リビング。


間接照明に包まれた柔らかな空間。

ソファに並ぶ夫婦の距離は、自然に近い。


妻は少しだけ夫に寄り添っている。


夫が静かに口を開いた。


夫「……あの制服」


妻が視線を上げる。


妻「どれのこと?」


夫「佐川に渡したやつだ」


一瞬の沈黙。


夫「あれ、昔お前が使用人だった頃に着ていたものだろう」


妻の指先が、わずかに動く。


妻「……よく覚えていますね」


夫「忘れるわけがない」


夫は穏やかに笑う。


夫「あれを着て、毎日俺の前に立っていた」


妻の頬がわずかに赤くなる。


妻「まさか他の女に着せるとは思わなかったわ」


夫「俺にとっては思い出だからな」


夫は少し考えるように言う。


夫「佐川には新しい制服を買って、あれは手元に残してもよかったかもしれない」


妻が小さく笑う。


夫「思い出を他人に触れさせたくなかった、というのが本音だ」


妻は視線を落とす。


妻「……あの部屋も」


夫「ん?」


妻「最初は倉庫じゃなかったわ」


夫が頷く。


妻「生活できる部屋だった」


妻「小さかったけれど、窓もあった」


妻の声が少し柔らかくなる。


妻「あなた、よく来てましたね」


夫「......ああ。お前と話したかったからな。色々理由をつけてたな」


夫は静かに答える。


夫「思い出だ」


短い沈黙。


遠くで、雑巾を絞る音がかすかに響く。


妻の表情が、ふと変わる。


妻「……でも」


夫「どうした」


妻「私は、あの女に優しくできない」


夫は否定しない。


妻は静かに続ける。


妻「彼女の夫のことを思うと、憎悪が消えないの」


夫「わかっている」


妻「あなたを巻き込んだ。それに私は......」


妻の声は低い。


妻「あなたが二億も肩代わりすることになった」


夫は軽く息を吐く。


夫「二億か」


妻「軽く言わないでください」


夫「本心だ」


夫は淡々と言う。


夫「あの男が起因で、お前と結ばれたと思えば」


視線が妻に向く。


夫「二億なんて、正直どうでもいい」


妻が見つめ返す。


妻「……本気で言っているの?」


夫「今の俺の財力からすれば、端金だ」


夫の声は落ち着いている。


夫「影響はない」


妻「でも」


夫「それに金は増やせる」


夫は妻の手を握る。


夫「お前と一緒になれた、それだけで充分だよ」


妻の目が揺れる。


夫「それに......」


夫は少し間をおいて静かに言う。


夫「お前が佐川に優しくできなくても、俺は否定しない」


妻は視線を伏せる。


妻「私はまだ、許せません」


夫「無理に許す必要はない」


夫は受け止める。


夫「お前の感情は、お前のものだ」


リビングは静かだった。


遠くで、床を擦る音が続いている。


夜景は変わらず美しく、

その下で、三人の立場だけがはっきりと分かれていた。

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