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初めての雑巾掛け
夕刻のリビング。
高層階から見下ろす街の灯りが、ゆっくりと瞬き始めている。
妻「玄関の雑巾掛けから」
——玄関。
佐川は、豪華な玄関ホールに移動する。
バケツに水を張る。
雑巾を手に取る。
ふと、動きが止まる。
雑巾を、絞る。
佐川にとって、それは初めての動作だった。
これまで、誰かがやってきた。
掃除係が。
使用人が。
自分の手で、雑巾を強く握り、水を切る。
力の入れ方がわからず、水がぽたりと床に落ちる。
妻の声が背後から飛ぶ。
妻「何をしているの?」
佐川「……申し訳ございません」
妻「そんなこともできないの?」
佐川「……ただいま、習得いたします」
再び握る。
水が滴り落ちる。
指先が赤くなる。
旦那様の声が遠くから響く。
夫「時間がかかりそうだな」
佐川は、何も言わずに床に膝をつく。
大理石に雑巾を押し当て、ゆっくりと擦る。
かつてはヒールで踏みしめた似たような床。
今は、両手で磨く側。
妻が静かに告げる。
妻「それがあなたの仕事」
佐川「……はい」
夜が深まる。
雑巾を絞る音が、玄関に静かに響いていた。




