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終わらぬ転落  作者: ありり
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救いの声の外側で

扉が、静かに閉まった。


佐川の足音が廊下の奥へ消えていく。

それを確かめるように、妻はしばらく動かなかった。


部屋に残ったのは、二人分の呼吸と、ランプの淡い光だけ。


夫は、組んでいた脚をほどき、テーブルに置かれたカップに視線を落とした。


夫「……少し、きつかったか」


妻は首を振る。


妻「いいえ」


そして、少し間を置いてから、そっと言った。


妻「必要でした」


夫は何も言わず、妻の手を取る。

その指先は、わずかに冷えている。


妻は、夫の肩に身を寄せた。


妻「……ねえ」


夫「うん」


妻「あなた、覚えていらっしゃいますか?」


夫「何をだ」


妻「私が、この家に来た頃のこと」


夫は、ふっと小さく笑った。


夫「忘れるわけない」


夫「使用人としてだった。どうしてもお前を側に置きたくて強引に使用人にしたな」


妻は目を伏せる。


妻「ふふ。ここに雇われてから何も分からなくて、失敗ばかりで……」


夫「それでも」


夫は静かに言う。


夫「一生懸命だった、こんな俺のために」


夫「……ありがとう」


妻は、改めて言葉を選ぶように続けた。


妻「私が使用人だった頃から、あなたはずっと優しかった」


妻「怒鳴らなかった」


妻「見下さなかった」


妻「不器用だけど気にかけてくださった」


夫は、少し困ったように眉を下げる。


夫「当たり前だろ」


妻「でも」


妻は、ゆっくり首を振る。


妻「当たり前じゃない」


その声には、確かな重みがあった。


妻「私……ずっと、心配だったんです」


夫が視線を向ける。


夫「何をだ?」


妻は、しばらく沈黙してから、言った。


妻「年上なこと」


妻「子どもが、なかなか授からないこと」


言葉が、空気に落ちる。


妻「あなたの人生を、私が狭めているんじゃないかって」


妻「後悔させているんじゃないかって」


夫は、はっきりと首を振った。


夫「それは違う」


妻「でも……」


夫「違う」


夫は、妻の両手を包み込む。


夫「俺は」


少しだけ言葉を探し、それから続ける。


夫「最初から、選んだ」


夫「立場も、年齢も、条件も」


夫「全部込みで」


妻の目が、わずかに揺れる。


妻「……それでも?」


夫「ああ」


夫は、迷いなく言った。


夫「お前さえいればいい」


夫「それ以外は、どうでもいい」


妻は、息を呑んだ。


妻「……そんなこと、簡単に言わないで」


夫「簡単じゃない」


夫は、妻の額に軽く触れる。


夫「長く考えた末の答えだ」


夫「子どもがいなくても」


夫「年を取っても」


夫「一緒にいる時間が、少し短くても」


夫「お前と過ごすことを、後悔したことは一度もない」


妻の目に、涙が滲む。


妻「……ありがとうございます」


夫「こちらこそだ」


夫は、優しく微笑んだ。


夫「ここにいてくれて」


二人は、しばらくそのまま、言葉を交わさなかった。

触れ合う手の温度だけが、確かだった。



その頃。


廊下の向こうで、佐川は立ち止まっていた。


(……奥様が)


聞くつもりはなかった。

ただ、足が止まってしまっただけ。


(……使用人、だった?)


胸の奥が、ひくりと痛む。


(同じ……)


この家に仕える立場。

叱責される日々。

自分の価値を、役割で測られる感覚。


(同じ、だったのに)


でも——


(……違う)


夫の声。

否定しない言葉。

存在そのものを肯定する声。


(あんなふうに……)


思ってしまう。


(旦那様が、あの方のように……)


すぐに、その考えを振り払う。


(……違う)


(私は、佐川だ)


過去の自分と、奥様の過去が、重なって見える。

同じ場所に立っていたはずなのに、

向けられた手は、まったく違っていた。


(……羨ましい、なんて)


思ってはいけない。


佐川は、静かに息を整え、再び歩き出す。


あの部屋には、もう戻れない。

入る資格も、混ざる理由もない。


ただ、与えられた役割を果たすだけ。


そう言い聞かせながら。



部屋の中では、夫婦が静かに寄り添っていた。


外の夜景が、何も知らずに瞬いている。


同じ家の中で、

全く違う“救われ方”と“救われなさ”が、

同時に息づいていた。

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