夫婦の未来⑤ 〜佐川の胸の内〜
水の音が、単調に流れている。
鍋の中でスープが小さく揺れる。
佐川は木べらを動かしながら、ぼんやりと湯気を見つめていた。
寝室の向こうには、旦那様と奥様がいる。
同じ空間で、同じ夜を過ごしている。
――あの人たちは、同じ場所に帰る。
自分は違った。
元夫との夜を思い出す。
広い邸宅。
豪奢なダイニング。
使用人たちが整然と並ぶ食卓。
だが、同じ部屋にいながら、隣にはいなかった。
「君は黙っていればいい」
元夫の声はいつも冷えていた。
「口を出すな」
「笑うな」
「空気を読め」
あの頃の自分は、装飾品だった。
ネックレスを贈られた誕生日。
二人きりで祝った記憶はない。
祝ってくれたのは、使用人たち。
今思えば、それだけが温かかった。
質屋で査定されたあのネックレス。
五十円。
価値は、そんなものだった。
没収されている今でも、なぜか胸に残っている。
私はスープを静かにかき混ぜる。
奥様と旦那様を思い浮かべる。
今日、奥様は俯いた。
子どもの話で。
旦那様は、それを見逃さなかった。
あの一瞬で、気づいた。
すぐに話題を切り上げた。
元夫ならどうしただろう。
きっと笑ったままだ。
「焦るな」
「まだ若い」
自分に言うのではなく、周囲に言う。
そして後で、冷たい沈黙。
あの人は、自分の痛みを“気づく”ことはなかった。
だが旦那様は違う。
抱きしめる。
何も言わずに。
言葉がなくても、触れる。
そこが違う。
奥様は、不安を口にできる。
「別れを言ってほしい」と。
そんな言葉を、自分は元夫に言えただろうか。
言った瞬間に、終わっていた。
対等ではなかった。
選ばれている実感がなかった。
奥様は、恐れている。
でも、愛されている。
自分は恐れすら、口にできなかった。
愛されている確信がなかったから。
スープの味を確かめる。
塩をひとつまみ。
胸が、少しだけ重い。
――羨ましい。
その感情を認めるのは、悔しい。
奥様は自分を叱責する。
冷酷になる。
残酷に命じる。
だがそれでも。
旦那様は、奥様のもとへ戻る。
抱きしめる。
離さない。
そこが決定的に違う。
元夫は、隣に座っても遠かった。
旦那様は、離れていても戻る。
佐川は小さく息を吐く。
自分は今、給仕をする側。
あの頃は、給仕をさせる側だった。
立場は逆転した。
だが。
本当に違うのは、立場ではない。
“隣にいるかどうか”。
それだけだ。
鍋の火を止める。
トレイに器を並べる。
白いエプロンの紐を結び直す。
胸の奥に残るのは、後悔ではない。
静かな理解。
――私は、選ばれていなかった。
それだけ。
そして今も、選ばれていない。
トレイを持ち上げる。
廊下の先、閉じた寝室の扉。
その向こうにある温度は、自分には届かない。
私は無表情に戻る。
「軽食をお持ちいたしました」
その声は、揺れない。
だが胸の奥だけが、少しだけ軋んでいた。




