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終わらぬ転落  作者: ありり
転機
43/125

アルバムに写らない人

夜のリビング。

窓の外には、秋を待つにはまだ早い都会の夜景が広がっている。


ソファに並んで座る夫婦は、自然に寄り添っていた。

妻は夫の肩に頭を預け、夫は片腕で包むように抱いている。


その足元で、佐川は床に膝をついていた。

雑巾を両手で押さえ、大理石の床を一定の速度で拭いている。


夫「……京都は秋で決まりだな」


夫が、少し考え込むように言う。


夫「紅葉も見頃だし」


妻「ええ。楽しみ」


妻は目を閉じたまま、穏やかに答える。


夫「でも……」


夫は言葉を切り、眉をひそめる。


妻「まだ悩んでる顔ね」


夫「まあな」


妻が顔を上げ、夫を見る。


妻「何でしょう?」


夫「お前の誕生日」


妻「……5月?」


夫「ああ」


夫は少し申し訳なさそうに続ける。


夫「秋に旅行は決まったけど、誕生日は別だろ。

ちゃんと、何かした方がいいんじゃないかって」


妻は一瞬きょとんとしてから、くすっと笑った。


妻「そんな顔してたの?」


夫「分かりやすいか?」


妻「ええ、とても」


佐川の雑巾が、わずかに軋む音を立てる。


(……誕生日)


その言葉が、床に落ちてくる。


妻「じゃあ」


妻は、何でもないことのように言った。


妻「近くのテーマパークに行きたい」


夫は、はっきりと目を瞬かせる。


夫「……テーマパーク?」


妻「はい」


夫「それで、いいのか?」


妻「それが、いいの」


妻は迷いなく言う。


妻「遠くに行かなくてもいいし、高級じゃなくてもいい」


夫「でも……」


妻「一緒に笑って、並んで歩ければ、それでいいわ」


夫は言葉を失い、それから、ゆっくり息を吐いた。


夫「……本当に、それでいいんだな」


妻「ええ、それがいいです」


妻は微笑む。


妻「あなたと行くなら」


そのやり取りの間、

佐川は黙って雑巾を動かし続けていた。


(……テーマパーク)


人の多い場所。

笑い声。

列に並ぶ時間。


(……一緒に)


その言葉が、胸の奥でひっかかる。


雑巾を持つ手が、ほんの一瞬、止まった。


——その瞬間。


妻「……何、止まってるの?」


妻の声が、鋭く飛ぶ。


佐川ははっとして、すぐに頭を下げる。


佐川「申し訳ございません」


妻「聞こえなかった?」


佐川「いえ……」


妻「だったら、手を動かしなさい」


妻は、夫の肩から離れずに言う。

視線も、佐川には向けない。


妻「お前の仕事でしょう」


佐川「……はい」


佐川は、急いで雑巾を動かす。

さっきよりも、丁寧に。

さっきよりも、速く。


(……止まるな)


自分に言い聞かせる。


(考えるな)


夫は、そのやり取りに口を挟まない。

ただ、妻の指を軽く握り直す。


夫「テーマパークか」


妻「嫌?」


夫「いや」


夫は小さく笑う。


夫「お前がそんなこと言うとは思わなかっただけだ」


妻「たまには、いいでしょう?」


夫「……そうだな」


二人の間に、柔らかな空気が戻る。


夫「じゃあ、5月はそれで」


妻「ええ」


夫「秋は京都」


妻「うん」


未来の話が、自然に積み重なっていく。


佐川は、そのすべてを背中で聞きながら、床を拭き続ける。


(……5月)


(……秋)


日付が、遠くで決まっていく。


自分の時間は、どこにも含まれていない。


雑巾を絞るために、少し体重を移動させる。

腕が、じんと痺れている。


それでも、止まらない。


止まれば、また声が飛ぶ。


夫婦は、もう佐川を意識していない。

楽しそうに、次の話題へ移っている。


夫「写真、いっぱい撮ろう」


妻「テーマパークも、京都もね」


夫「アルバム、作るか」


妻「いいわね」


笑い声が、天井に溶ける。


その足元で、

佐川は床に映る光だけを見つめながら、

雑巾を押し続けていた。


存在を消すことだけが、

今の自分に許された役割だと、

何度も、何度も言い聞かせながら。

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