佐川 惠(さがわ めぐみ)42歳
——選ばれたと思っていた女
佐川家は代々続く会社経営の一族だった。
門をくぐれば、季節ごとに整えられた庭園。
大理石の玄関。
吹き抜けのホールに響くヒールの音。
惠はその家の一人娘として生まれた。
掃除係が廊下を磨き、
洗濯係が衣類を整え、
料理人が食卓を用意し、
給仕が皿を下げる。
専属の世話係が、朝から晩まで彼女の身支度を整えた。
「お嬢様、本日のご予定でございます」
「お嬢様、ドレスはこちらに」
惠は自分の手で家事をしたことがなかった。
使用人たちを叱責し、顎で使うこともあった。
困ることも、不足することもなかった。
それが普通だった。
父は言った。
「いずれはお前がこの家を継ぐ」
だが、同時に——
「守られる存在」でもあった。
⸻
二十八歳のとき。
ある祝賀会で出会った男。
二十二歳。
整った顔立ち。
若いが話術が巧みで、人懐こい笑顔。
——六歳年下。
彼は、惠を“お嬢様”ではなく、“女性”として扱った。
「あなたは強い人だ」
その一言で、心が揺れた。
これまで家の名前で見られてきた自分を、
一人の人間として見てくれている気がした。
惠は、一目で恋に落ちた。
父は静かに警告した。
「彼は社交的すぎる。若いが女の噂も多い」
惠は笑った。
「そんなの、過去の話よ」
信じたかった。
自分が特別だと。
⸻
三十歳で結婚。
盛大な式。
祝福の拍手。
六歳年下の夫を伴う自分。
誇らしかった。
「君がいるから、俺はもっと上を目指せる」
彼はそう言った。
惠は支える覚悟を持った。
だが、結婚生活は少しずつ形を変えた。
彼は人脈を広げ続けた。
「今日は会食」
「今日はパーティー」
「今日は仕事の付き合い」
帰りは遅い。
携帯は手放さない。
女性の名前が、時折耳に入る。
問いかければ、笑ってかわされた。
「嫉妬か?」
その軽さに、惠は何も言えなくなる。
⸻
やがて、子供の話が出た。
佐川家の跡取り。
しかし、何年経っても授からなかった。
検査を重ねるたび、
「原因ははっきりしない」という言葉が積み重なる。
周囲の視線が変わる。
“跡取りのいない一人娘”。
夫は表向き優しかった。
「まあ、二人でいいよ」
だが、どこか距離があった。
そして、彼の交友関係はさらに派手になった。
若い女性の影。
噂。
写真。
否定はするが、態度は曖昧。
惠は、自分に問いかける。
「私は、何で選ばれたの?」
⸻
やがて、答えは形になった。
夫の事業拡大。
投資。
名義の変更。
資金の移動。
すべてが、佐川家の信用と財力を背景にしていた。
彼は、家の名前を使い、資金を動かし、人脈を築いた。
そして、失敗した。
焦げついた投資。
膨らむ負債。
責任は、佐川家。
問い詰めた夜、彼は初めて本音を見せた。
「俺は、もっと大きくなりたかった」
「私と一緒に?」
「……」
沈黙が答えだった。
彼が欲しかったのは、惠ではない。
佐川家の資金。
信用。
看板。
跡取りもいない。
“家”としての未来も不安定。
利用価値が薄れたとき、彼は離れていった、他の女と。
⸻
豪邸は手放された。
使用人は去った。
誰も「お嬢様」とは呼ばない。
四十二歳。
一人娘として守られ、
六歳年下の男に恋をし、
選ばれたと思い、
利用され、
子もなく、
財も失った。
鏡の前で、惠は思う。
「私は、愛されたのだろうか」
答えは、静かに胸に落ちる。
彼は、最初から“家”を見ていた。
交友関係も、女性の影も、
すべては彼の本質だった。
自分だけが、見ないふりをしていた。
⸻
何不自由なく育った一人娘。
選ばれたと思っていた女。
だが実際は、
選ばれていたのは“財力”。
愛されたのは“名前”。
残ったのは、四十二歳の現実だけだった。
これから自分が仕える旦那様は三十歳、奥様は三十六歳。
奇遇にも自分と同じ、夫が六歳年下で同じ数字を持つ夫婦だ。
この夫婦にいったいどんな物語があるのだろうか。




