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終わらぬ転落  作者: ありり
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メイド部屋

ドアがゆっくりと開いた。


妻「ここよ」


妻は淡々と告げる。


佐川は一歩足を踏み入れ、息を止めた。


狭い。

メイド部屋ではあるが、壁際にはモップやバケツ、洗剤、雑巾の束が整然と並んでいる。

その隅に押し込められたように簡易ベッド。

申し訳程度のユニットバス。


——物置。


そう言われても否定できない空間だった。


佐川の人生において、これほど質素な部屋は初めてだった。


かつては天井の高い寝室、専用のバスルーム、広いクローゼット。

今は、掃除道具と同じ空間で眠る。


妻が振り返る。


妻「どう? 落ち着く?」


佐川「……身に余るお部屋でございます」


妻「皮肉が通じないのは楽でいいわ」


棚から数枚のブラウスと黒いスカート、エプロンを取り出す。


妻「これがあなたの制服。貸与よ」


佐川は両手で受け取る。


襟元はわずかに擦れ、ボタンの縫い目も甘い。

エプロンの白はくすみ、紐には何度も結ばれた跡。


妻「......前にいた人が使っていたものよ」


妻はあっさり言う。


妻「あなたに新品は不要」


佐川「……はい」


妻「所有権はない。破損は弁償」


佐川「承知いたしました」


妻の視線が、佐川のバッグに落ちる。


妻「荷物を出しなさい」


佐川は膝をつき、ネックレスやイヤリングを床に並べる。


その中に、小さな箱。

大切にしていたネックレス。


妻がそれを手に取る。


妻「これは?」


佐川「……大切な、思い出でございます」


妻「そう」


奥様は一瞬だけ光をかざし、そして箱に落とす。


乾いた金属音が部屋に響く。


妻「没収するわ」


佐川の指先が、ほんのわずかに震える。


佐川「……あのネックレスだけは……」


妻「何?」


静かな問い。


佐川「……所持をお許しいただければと」


奥様はゆっくり首を横に振る。


妻「だめよ、許さない」


一歩近づく。


妻「あなたに“思い出”は不要。ここでは邪魔」


佐川「……はい」


妻「許可するのは、下着とその茶色のカーディガンだけ」


佐川「……承知いたしました」


妻「あのくたびれたカーディガン、あなたに似合っているわ」


佐川は深く頭を下げる。


佐川「……ありがとうございます」


妻「礼はいらない」


奥様の声が冷たくなる。


妻「着替えなさい」


数分後。


白いブラウス。

黒いスカート。

使い古されたエプロン。


佐川は戻る。


奥様は簡易ベッドに腰掛け、脚を組んでいる。


妻「跪きなさい」


佐川は即座に両膝を床につける。


冷たい床の感触。


妻「改めて立場を言いなさい」


一拍。


「……私は旦那様と奥様の所有物。表向きは使用人、実態は奴隷です。命令なく動かず、許可なく意見せず、存在を許される身、佐川でございます」


奥様はゆっくり足を伸ばす。


革靴のつま先が、佐川の顎に触れる。


妻「顔を上げなさい」


押し上げられ、視線が合う。


三十六歳の奥様。

四十二歳の佐川。


妻「あなたにとって人生で一番みすぼらしい部屋かしら?」


佐川「……はい」


妻「ネックレスは大切なようだったけど、失ってどう?」


佐川「……当然の処置でございます」


妻「強がりね」


つま先がわずかに顎を持ち上げる。


妻「あなたは物。思い出も、装飾も、必要ない」


佐川「……はい」


足が離れる。


奥様は立ち上がる。


妻「まだ終わりではないわ」


佐川「……はい」


妻「旦那様にも、改めて御礼、挨拶をしなさい」


佐川は頭を深く下げる。


佐川「……承知いたしました」


妻「今の姿で。今の立場で」


奥様はドアを開けながら告げる。


妻「リビングへ来なさい。あなたが何者か、もう一度申し上げるの」


佐川「……はい」


最後に振り返る。


妻「忘れないで。ここがあなたの居場所。あの広いリビングは、許されて立つ場所よ」


ドアが閉まる。


佐川は一瞬、部屋を見渡す。


簡易ベッド。

掃除用具。

失われたネックレス。


そして静かに立ち上がる。


廊下へ出て、豪華なリビングへ向かう。


足音が、やけに大きく響いた。

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