奥様との出逢い
タワーマンションの高層リビング。
大きな窓の向こうに、夕暮れの街が広がっている。
柔らかなオレンジ色の光が室内に差し込み、静かな空気が漂っていた。
佐川は一歩後ろに立ち、視線を落としたまま両手を揃えている。
男は腕を組み、隣には赤いワンピースを纏った妻が静かに佇んでいた。
しばらく沈黙が続き、やがて男が口を開く。
夫「言っていた使用人だ」
妻は横目で佐川を見る。
妻「……この人が?」
夫「ああ。元・奥様だ。今は借金を抱えているがな」
佐川の肩がわずかに揺れる。
妻は一歩前へ出て、佐川の前に立った。
妻「顔を上げなさい」
佐川はゆっくりと顔を上げる。
その目には、かつての気配がまだわずかに残っていた。
妻は落ち着いた声で言う。
妻「あなた、ここで働くの?」
佐川「……はい」
妻「名前は?」
佐川「……佐川惠でございます」
横から男が淡々と訂正する。
夫「呼び方は“佐川”でいい」
妻は小さく笑う。
妻「……佐川」
その声には、わずかな興味が混じっていた。
妻は男を見る。
妻「あなた、本当にこの人を?」
男は軽く肩をすくめる。
夫「使用人を雇うのは嫌だと言っていただろう?」
妻「ええ。これまで私一人でこなしてきましたから。
特別に誰かを置く必要はないと思っていました」
夫「だから“普通の使用人”ではない」
男は静かに言う。
夫「お前のために働く人間だ」
妻は佐川をゆっくり見つめる。
妻「そう……ですか」
佐川は視線を落としたまま答える。
妻が問いかける。
妻「自分の立場は理解している?」
佐川「……はい」
妻「言いなさい」
一拍置く。
佐川「……私は、この家で働かせていただく者でございます」
妻の目がわずかに細くなる。
妻「私のために?」
佐川「……はい、奥様」
妻は少し驚いたように言う。
妻「私はあなたより年下よ?」
佐川「……承知しております」
妻はくすりと笑う。
妻「でも、立場は?」
佐川「……奥様のほうが上でございます」
男が満足そうに頷く。
夫「きちんと理解している」
妻は男の腕に軽く触れる。
妻「本当に朝から晩まで?」
夫「ああ。忙しくはなるだろう。言い訳も通らない」
妻は再び佐川を見る。
妻「借金は?」
佐川「……約二億ほどございます」
妻「返せると思っているの?」
佐川「……働き続ければ、いつかは」
妻は静かに首を振る。
妻「世の中はそんなに優しくないわ」
その言葉は静かだったが重い。
妻「利息は増える。時間も過ぎる。年齢も重なる」
佐川の指先がわずかに震える。
妻は続ける。
妻「あなた、四十二歳と聞いているわ」
佐川「……はい」
妻「私は三十六。あなたより若い」
佐川「……はい」
妻はゆっくり言う。
妻「昔は……あなたのような立場の人が、私を見下ろしていたのかもしれないわね」
佐川の呼吸が少しだけ浅くなる。
妻「今は逆」
妻は正面に立つ。
妻「今日から、あなたはこの家で働く人」
男を見る。
妻「好きに扱っていいのですね?」
夫「もちろんだ。限度はあるがな」
妻の唇がわずかに上がる。
妻「壊れたら?」
夫「それは困る。貴重な人材だからな」
その言葉に、佐川はほんのわずかだけ息を整える。
妻が静かに言う。
妻「佐川」
佐川「……はい」
妻「明日から、私の身の回りを担当しなさい。
着替え、掃除、買い物、靴の手入れ」
佐川「……はい」
妻「失敗したら?」
佐川は静かに答える。
佐川「……ご指導を受けます」
妻は穏やかに言う。
妻「そう。私が教える」
男が最後に言った。
夫「佐川。ここはお前が以前いた場所とは違う」
佐川は深く頭を下げる。
佐川「……ご指導、よろしくお願いいたします」
夕暮れの光が三人を包む。
かつて“奥様”と呼ばれていた女は、
今はこの家で働く一人の人間になった。
その名は――
佐川。




