転落
重厚な書斎。
夜の静寂が部屋を満たしている。
革張りのソファに深く腰を沈めた若き富豪は、足を組み、静かな視線を床へ落としていた。
その視線の先にいるのは、床に深く頭を下げている一人の女。
かつては大富豪の妻と呼ばれた女――
佐川 惠、四十二歳。
床板に響くのは、彼女の震える息遣いだけだった。
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佐川「……お願いいたします。住み込みで……どんな仕事でもいたします。どうか……雇っていただけませんでしょうか……」
部屋に沈黙が落ちる。
男はしばらく何も言わなかった。
やがて静かに口を開く。
男「借金の返済が滞っているのは……お前の元夫のせいだな」
佐川「……はい」
男「逃げたそうじゃないか」
佐川は答えない。
ただ、額を床につけたまま小さく頷く。
男はゆっくりと視線を落とす。
男「……どんな仕事でもすると言ったな?」
佐川「……はい」
男「朝から晩まで働くことになっても?」
佐川「……はい」
男「厳しい扱いになるかもしれないぞ」
一瞬だけ、空気が張りつめた。
しかし彼女は、さらに深く頭を下げる。
佐川「……それでも構いません」
男の口元がわずかに歪む。
男「そうか。ずいぶん覚悟を決めた顔だな。元・大富豪の奥様が」
その言葉に、佐川の肩が小さく震える。
男は淡々と続ける。
男「正直に言おう。俺の妻は使用人を雇うことに抵抗がある。
特に――お前の元夫を心底嫌っている」
佐川「……」
男「あの男の傲慢さも、借金の踏み倒しも、裏切りも。全部知っている。
妻は“あの男の影を感じるもの”を家に入れたくないと言っていた」
少しだけ間を置く。
男「それに俺は……妻以外の人間に特別優しくするつもりはない」
静かな言葉だったが、重みがあった。
男は肘掛けに肘を置き、顎を支える。
男「だが……そうだな」
少し考えるように言う。
男「“特別な条件付き”なら考えてもいい」
佐川の指先が、床を強く握る。
男「お前は普通の使用人ではない」
静かな声。
男「俺の妻のそばで働く人間として迎える。
いわば――妻のために用意する人材だ」
佐川は顔を上げないまま答える。
佐川「……はい」
男「朝は早い。夜も遅い。仕事は多い。休みも多くはない」
佐川「……はい」
男「命令にはすぐ動くこと。言い訳はしないこと」
佐川「……はい」
男「そして何より」
男の声が低くなる。
男「ここでは過去の肩書きは意味がない」
静かな圧。
男「“佐川さん”ではない。“佐川”だ」
佐川の喉が小さく鳴る。
佐川「……はい」
男「年齢は?」
佐川「四十二歳……です」
男「俺は三十だ」
その事実が、静かに落ちる。
男「年下の男に頭を下げるのは、気分がいいものではないだろう」
沈黙。
しばらくして、佐川が答える。
佐川「……それでも……生きるために必要です」
男は立ち上がる。
革靴が静かに床を鳴らす。
佐川の前まで歩き、見下ろす。
男「顔を上げろ」
彼女はゆっくり顔を上げる。
男「明日から働け」
佐川の拳がわずかに震える。
佐川「……このような身を置かせていただき……ありがとうございます」
男は振り返る。
男「礼はいらない」
静かな声。
男「役に立てばそれでいい」
そして最後に、振り返らずに言う。
男「佐川。ここでは過去は関係ない」
重い扉が閉まる。
書斎に残された女は、床に跪いたまま静かに息を吐いた。
「明日から働け、佐川。」
その言葉が胸に残る。
広い書斎の床に、四十二歳の女がひとり。
かつては大富豪の妻だった女。
今は――
ただの 「佐川」。




