表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わらぬ転落  作者: ありり
1/82

転落

重厚な書斎。

夜の静寂。革張りのソファに深く腰を沈めた若き富豪は、足を組み、冷ややかな視線を床へ落としていた。


床に額を擦りつけるように伏しているのは、かつては大富豪の妻と呼ばれた女――佐川 惠、四十二歳。

床板に響くのは、彼女の震える息遣いだけ。


佐川「……お願いいたします。住み込みで……どんな仕事でもいたします。どうか……雇っていただけませんでしょうか……」


沈黙。


男「借金の返済が滞っているのは、お前の元夫のせいだな」


佐川「……はい」


男「逃げたそうじゃないか。あの男は」


沈黙。


男はゆっくりと視線を下げる。


男「……どんな仕事でもすると言ったな?」


佐川「……はい」


男「朝から晩まで、休みなく働かせても?」


佐川「……はい」


男「人として扱わなくても?」


一瞬、空気が止まる。


しかし彼女は額をさらに床に押し付けた。


佐川「……構いません」


男の口元がわずかに歪む。


男「構わない、か。ずいぶん安くなったものだな。元・大富豪の奥様が」


その言葉に、佐川の肩が小さく震える。


男「正直に言おう。俺の妻は使用人を雇うことに抵抗がある。特に――お前の元夫を心底嫌っている。」


佐川「……」


男「あの男の傲慢さも、借金の踏み倒しも、裏切りも。すべて知っている。妻は“あの男の匂いがするもの”を家に入れたくないと言っていた。

……それに俺は、妻以外の人間に優しくするつもりはない。」


鋭い沈黙。


男「だが――そうだな」


男は肘掛けに肘を置き、顎を支える。


男「“奴隷”であれば考えてもいい」


佐川の指先が床を強く握る。


男「わかるか? 使用人ではない。奴隷だ」


佐川「……はい、それでも私は……」


男「お前は俺の所有者となり、妻への“贈り物”となる」


冷酷な声音。


男「朝早くから深夜まで働く。休みは与えない。命令には即答、即実行。逆らえば追い出すし、借金は一生消えない」


佐川「……はい……お願いいたします」


男「そうか。呼び名も変える」


一瞬、視線が鋭くなる。


男「“佐川さん”ではない。“佐川”だ。わかったか、佐川」


その呼び捨ては、刃のように響いた。


佐川「……はい」


男が鼻で笑う。


静かな圧。


男「復唱しろ」


佐川の喉が鳴る。


佐川「……私は、贈り物として与えられる……奴隷、です」


男「もっとはっきり」


佐川「私は、あなた様の妻への贈り物として差し出される、奴隷です」


男「年齢は?」


佐川「四十二歳……です」


男「俺は三十だ」


その事実が突きつけられる。


男「ひと回り年下の男に、床に這いつくばって命乞いをする気分はどうだ?」


沈黙。


佐川「……それでも……生きるために、必要です」


男は立ち上がる。


革靴が床を鳴らす。


佐川の前に立ち、見下ろす。


男「顔を上げろ」


彼女はゆっくりと顔を上げる。


その目に、誇りの残骸がかすかに揺れている。


男はそれを見逃さない。


男「まだ少し残っているな。元奥様の顔が」


低く笑う。


男「それはいらないな」


冷たく告げる。


男「ここではお前は“道具”だ。妻が気に入らなければ処分する」


佐川「……はい」


男「立場を言え」


佐川「……私は、借金返済のため置いて頂く奴隷です」


男「誰の?」


佐川「……あなた様の、所有物です」


男「誰のための?」


佐川「……奥様のための、贈り物です」


沈黙。


男は満足げに息を吐く。


男「明日から働け。」


佐川の拳がわずかに震える。


佐川「……このような身を置かせていただき……ありがとうございます」


男は振り返る。


男「礼はいらない。役に立て」


そして最後に、振り返らずに言う。


男「佐川。ここでは過去は無い。あるのは命令だけだ」


重い扉が閉まる。


床に取り残された女は、静かに息を吐いた。


「明日から働け、佐川。」


扉が閉まる。


広い書斎に、床に跪いたままの43歳の女が残る。


かつては大富豪の妻だった女。


今は――


ただの「佐川」。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ