第2小節 「止まった指揮棒」
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放課後の音楽室。
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誰もいないはずの場所から、
小さなピアノの音が響いていた。
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桐谷響子は、廊下で足を止める。
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「……誰?」
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扉を開けると、
そこにいたのは一人の少年だった。
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神谷奏。
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古いピアノの前に座り、
静かに鍵盤へ指を置いている。
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しかし。
その音は途中で止まった。
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「……すみません」
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奏は慌てて立ち上がる。
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「勝手に使っていました」
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桐谷は少し驚いた。
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「今の曲」
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「昔の吹奏楽部の課題曲ね」
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奏は答えない。
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その反応で、桐谷は気づいた。
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この少年は、
ただ暇つぶしで弾いていたわけではない。
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「君、音楽経験あるでしょ」
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「……ありません」
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即答。
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しかし。
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桐谷は首を振る。
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「嘘」
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「音楽を知らない人間は、そんな弾き方をしない」
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奏は目を伏せる。
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過去の傷
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数年前。
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神谷奏は、
将来を期待されたピアノ少年だった。
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コンクール。
発表会。
大会。
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いつも周囲から言われていた。
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「神谷君なら大丈夫」
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「君には才能がある」
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その言葉が、
いつしか重荷になった。
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そして。
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大きな舞台の日。
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演奏中。
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奏の指は止まった。
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頭の中が真っ白になった。
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客席。
審査員。
期待。
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すべてが怖くなった。
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それ以来。
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奏は人前で演奏することを避けた。
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桐谷の過去
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「私もね」
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桐谷が言う。
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「昔、同じだった」
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奏が顔を上げる。
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桐谷は窓の外を見る。
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「私も音楽を続けていた」
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「全国大会を目指していた」
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「でも」
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「最後の舞台で失敗した」
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その時から。
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桐谷は音楽を遠ざけた。
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教師になったのも、
音楽から逃げるためだった。
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「だから」
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「君の気持ちは少し分かる」
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奏は驚く。
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「先生も……?」
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桐谷は笑う。
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「完璧な人間なんていないよ」
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放課後ブレーメン
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桐谷は音楽室を見渡す。
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古びた楽器。
使われなくなった譜面台。
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「この部活」
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「もうすぐなくなる」
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奏は黙る。
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「でも」
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桐谷は続ける。
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「私は少しだけ、もったいないと思ってる」
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「音楽は」
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「上手い人だけのものじゃないから」
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その言葉が、
奏の心に残る。
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「神谷君」
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「もう一度、音楽をやってみない?」
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奏は迷う。
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怖かった。
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また失敗するかもしれない。
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また期待されるかもしれない。
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しかし。
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目の前の先生もまた、
同じ傷を抱えていた。
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「……指揮なら」
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奏が小さく言う。
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「え?」
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「演奏じゃなくて」
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「指揮なら、できるかもしれません」
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桐谷は微笑む。
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「それでいい」
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「音楽室に来る理由なんて」
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「最初は何でもいいんだよ」
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その日。
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止まっていた二人の時間が、
少しだけ動き始めた。
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音楽室の黒板には、
新しい文字が書かれる。
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吹奏楽部
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その下に。
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小さく。
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放課後ブレーメン
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第2章
「止まった指揮棒」
完




