Ⅷ ~妖霊の船
白い霧の内側から、ゆっくりと、黒い影が滲み出してくる。
黒鉄で覆われた船首に、そこここに備えられた砲台。
帆はなく、煙も出さず、潮の流れを割って進む魔導機構。
帝国海軍が誇る無敵海軍と言われる軍艦だ。
だが、様子がおかしい。
人の気配も音もなく、幻のように現れている。
~本文より
潮喰みの船首が、白の帯へ触れた。
その瞬間、世界がひとつ、薄く鳴った。
音とも言えぬ、かすかな軋み。
海と、霧と、船と、人の輪郭とが、一度だけ擦れた音だった。
ルルリアが肩を震わせる。
「何か気持ち悪い……何これ?」
「足元だけ感じろ。この霧では人も船も突然消える」
カルサは目を閉じたまま操舵輪を握っている。
「目ではなく、耳と躰で波を拾っておるのか。器用じゃの」
オルクスが感心した一言を放ったその時だった。
前方左の霧が、不自然に濃くなる。
何か巨大なものの輪郭に、霧が貼りついているのだ。
ルミナリスの百眼が、先にその像を拾う。
「……船が来ます」
カルサの顔が変わる。
「どこだ」
「左前方。白の流れの向こうです」
白い霧の内側から、ゆっくりと、黒い影が滲み出してくる。
黒鉄で覆われた船首に、そこここに備えられた砲台。
帆はなく、煙も出さず、潮の流れを割って進む魔導機構。
帝国海軍が誇る無敵海軍と言われる軍艦だ。
だが、様子がおかしい。
人の気配も音もなく、幻のように現れている。
まともな船ではない。
白い霧に喰われ、波の上に引っかかり、船そのものが妖霊じみた異形へ変じている。
船腹は、もはや本来の形を保っていなかった。
黒鉄の外板はところどころ白く膨れ、塩に腐食したのとも違う、不気味なただれ方を見せている。逆に別の箇所は焼けた骨のように黒く痩せ、継ぎ目の隙間からは綱でも海藻でもない、白い筋が幾本も垂れ下がっていた。
それらは波に揺られているのではない。風もないのに、ぬるりと自ら蠢いている。
砲台も無事ではなかった。
鉄の砲身には白い霧が薄くこびりつき、まるで砲そのものが息をしているみたいに、口の奥で青白い光がちらついている。撃てるのかどうかも分からない。だが、壊れて沈黙した兵器というより、何か別のものに“使われている殻”に見えた。
船首はさらに異様だった。
本来は波を切るための鋭い形であるはずなのに、いまは獣の頭蓋を思わせる歪さを帯びている。裂けた外板の影が、牙を剥いた口先のように重なり、その奥の暗がりでは灯火ではない濁った青白が、ぬらりと生き物めいて揺れていた。
欄干のあたりには、白い影が幾つも貼りついている。
兵の姿に見える。
だが、次の瞬間にはもう人には見えない。肩だけがあり、顔の位置が空洞になったもの。腕だけが異様に長く伸びたもの。半身だけが船体へ埋まり、抜けきれぬまま揺れているもの。
それらが甲板の上を歩いているのではなく、船そのものに取り込まれているように見えた。
ルミナリスの百眼が、白い霧の下にあるものを拾う。
沈んでいるのではない。
浮いているのでもない。
船底のあるべき輪郭が、途中から白い濁りへ溶け、海と霧の境目に半ば引っかかったまま進んでいる。
まるでこの軍艦だけ、正しい海の上から外され、ずれた層を無理やり滑っているようだった。
ルミナリスの声が低く落ちる。
「……危険です」
視線は軍艦から離さないまま、続ける。
「船そのものが歪んでいます。壊れているのではありません。白い霧と一体化しかけています」
ルルリアが息を呑む。
「なに、それ……まだ動くってこと?」
「はい」
ルミナリスは短く答えた。
「むしろ、普通の船より厄介です。こちら側に在りきっていません」
白い影のひとつが、欄干からだらりと垂れた。
人の腕のようにも、帆綱のなれ果てのようにも見えるそれが、波へ触れる寸前で止まり、次の瞬間にはゆっくりとこちらを向いた。
ルミナリスの声がさらに鋭くなる。
「目を離さないでください。でも、近づく形は追いすぎないで。あれは見た目が定まりません」
カルサが低く舌打ちした。
「……やっぱり、まともな軍艦じゃねえな」
その間にも、妖霊と化した帝国軍艦は、白い霧を引きずるようにして、音もなく距離を詰めてきていた。
ふいに、船腹の砲門のひとつがぬらりと光る。
魔導砲の閃きではない。
砲身の奥に溜まっていた濁った青白が、ひと息ぶん脈打ったのだ。
ルミナリスの百眼が、その異常を先に捉える。
「砲撃、来ます!」
言葉が落ちるのと、ほとんど同時だった。
轟音はなかった。
かわりに、空気を薄く裂くような甲高い音だけが走る。
撃ち出されたのは砲弾ではない。
白く濁った塊だった。
霧を圧縮したようにも、水そのものを凝らせたようにも見えるそれは、弧を描かず、海面すれすれを滑るようにして潮喰みへ走ってくる。
「右へ寄せろ!」
カルサの怒声が飛ぶ。
ゼルグとハグルが綱へ飛びつき、潮喰みがぎり、と身を捩る。
白い砲撃は船腹のすぐ脇をかすめ、そのまま波へ落ちた。
次の瞬間、海が白く裂けた。
爆ぜるのではない。
そこだけが一瞬、海ではないものへ変わったように、波頭が白く立ち尽くす。
ルルリアの顔が強張る。
「当たったらどうなるのよ、あれ」
ルミナリスは軍艦から目を離さずに答える。
「存在を削られます。船も、人も。恐らく消失です」
砲門がもうひとつ、またひとつと光る。
帝国軍艦の甲板に貼りついていた白い影たちも、同時に動き始めた。
歩く、という動きではなかった。
欄干から剥がれ、波へ垂れ、そこから波頭の上へ“移る”。
ひとつ。
またひとつ。
白い影は水面を沈まずに渡ってくる。
波に乗っているのではない。
波の行く先へ、先回りして現れている。
「白いのも来る!」
ハグルが叫ぶ。
その声を聞きつけたかのように、先頭の白い影が形を濃くした。
無数の白い腕が蠢き、揺れながら人の様な姿に変じていく。
だが腰から下は足にならず、白い布のように長く引き伸びたまま波と混ざり、顔にあたる部分は空洞だった。
そこだけぽっかりと白が薄く、目も口もないはずなのに、こちらを見ているのだと分かる。
ルミナリスの声が鋭く通る。
「近づかせないでください。触れられると、異相の向こう側へ引き寄せられます」
「どういう意味だよ!」
ゼルグが怒鳴る。
「生きたまま、躰が半分持っていかれます!」
その答えに、甲板の空気が一気に硬くなった。
カルサが即座に吠える。
「小さいの、散らせ! だが見すぎるな! 形を追うな!」
潮牙商会の海獣人たちが一斉に動く。
短銛。浄火の矢。魔導銃。
海の民の荒っぽいが正確な武器が、波の上の白い影めがけて飛ぶ。
槍は影の胸を貫いたはずなのに、次の瞬間には白い輪郭ごとほどけ、もう半歩先の波頭で形を取り戻す。
浄火の矢は白を焼く。だが焼かれた部分だけが黒く焦げるのではなく、その周囲ごと霧へ散り、別の腕のようなものが横から伸びてくる。
「ちっ、仕留められん!」
海獅子獣人が舌打ちをしながらも、必死に攻撃を仕掛けている。
霧の敵とは戦ったことは誰もなかった。
次回、マギア・ルーメに先んじていた帝国の痕跡を見つけます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




