Ⅰ ~ 絵の中の三人
誰かの話し声がした。
意味は聞き取れない。
その声は次の一歩で遠ざかり、さらにもう一歩で、最初から存在しなかったかのように途切れた。
街の音が、ひとつずつ消されていくのか、あるいは消えていくのか。
まるで見えない手が、背後の街から静かに摘み取っていくように、音がなくなっていった。
~本文より
ルミナリスが最初の一歩を踏み出したとき、足裏に返った感触は、まだ街の石畳のものだった。
乾いた石。
人の手で敷かれ、人の足で磨り減った、慣れた感触。
だがその上に、もうひとつ別のものが重なっている。
湿った土と、細い根のざらつき。
長い時を踏まれずにいた土だけが持つ、柔らかな沈み。
ふたつの感触が、ひとつの足裏に同時に触れていた。
ルルリアがその後に続く。
そして最後にオルクスが、枝を掲げたまま静かに路へ入った。
その瞬間だった。
ちりん。
風鈴がひとつ鳴った。
祭りの名残を宿した、小さく高い音。
風に吹かれ、余韻だけを残して、まるで水に溶けるように消えていく。
ルルリアが足を止めかける。
「振り返るな。前を向け」
オルクスの声が、低く差し込んだ。
それだけで十分だった。
ルルリアは唇を結び、前を向き直る。
ルミナリスは、百眼はもちろん、全感知機能を用いて事象を観測していた。
石畳の先は、まだただの路地のままだった。
崩れた壁。積まれた木箱。細い空。
だが一歩進むたびに、それらの位置関係が少しずつ曖昧になっていく。
頭上の空はひどく遠く、両側の壁は枝の影のように揺れ、距離そのものが静かに痩せていった。
どこかで、誰かの話し声がした。
意味は聞き取れない。
その声は次の一歩で遠ざかり、さらにもう一歩で、最初から存在しなかったかのように途切れた。
街の音が、ひとつずつ消されていくのか、あるいは消えていくのか。
まるで見えない手が、背後の街から静かに摘み取っていくように、音がなくなっていった。
歩いているのは、ただの数歩のはずだ。
それなのに認識の上では、背後の街一歩踏み出すだけで、容ごとに遠ざかっていく。
位相がずれていく。
ルミナリスはそれを異常として記録しながら、同時に理解していた。
これが、枝の道。王樹の記憶によって進む路なのだろう。
ルルリアが小さく息を吐く。
「なんか、世界から追い出されてるみたい」
「追い出されておるわけではない」
オルクスが答える。
「ただ、人の側の世が届かなくなっていくだけじゃ。どうということもないじゃろ」
「十分嫌なんだけど」
言葉はいつもの調子を装っていたが、声の芯は硬かった。
進むほどに、景色の色合いが塗り替えられるように変わっていく。
街の乾いた灰色から、森の奥で湿りを吸ったような深い青灰へ。
石の隙間には、いつの間にか細い苔が覗き、どこにも無かったはずの根が、絡むように縁をなぞっている。
背後で、何かを砕くような槌音がした。
低く重い音が響き、その次の瞬間、音のまったくしない静けさが三人を呑み込んだ。
完全な無音ではない。名づけようのない微かなざわめきはある。
葉の裏を撫でるような、根の奥で水が動くような、あるいは絵筆が画布をなぞるような音。
行き止まりにしか見えなかったはずの路地の石畳はどこまでも続き、有り得ぬほど深い影が幾重にも重なっていた。
頭上の空も変わっていた。
建物の陰からではなく、枝と枝の隙間から、かすかに砕けた月の欠片が覗く、森の上の夜だ。
ルミナリスの感知機能が警告を発している。
異相空間に到達。物理現象他予測不能。
オルクスが低く告げた。
「よいか。ここから先、道に惑わせられるな。枝の香りだけを辿れ」
ルルリアが乾いた喉を鳴らす。
「難しいことを簡単に言うわね」
「簡単ではない。じゃから言うておる」
そのやり取りに、わずかにだけ張り詰めたものが緩む。
だが足は止まらない。
三人の背後は、涙の月や星の光すら届かない、ただ白い虚無となっていた。
前方には、さらに深い路が続いている。
その先のどこかで、まだ見ぬ精霊画家が、夜に動く絵の前で在るのだろう。
ルミナリスは歩みを緩めなかった。
ただ枝の香りだけが、静かに、確かに前へと流れていた。
三人はその香りだけを辿り、さらに奥へ進む。
どれほど歩いたのか、もう分からなかった。
十歩ほどしか進んでいない気もするし、ずいぶん長く歩いたようにも思える。
ただ、石畳の色だけが少しずつ深くなり、湿りを帯び、森の影に馴染んでいく。
やがて風が止み、前方にぼんやりと薄い光が見えた。
灯火ではない。
月光とも違う。
もっと平たい、面を持つ光。
ルミナリスが足を止める。
「前方に異常光源を確認」
その声に、ルルリアも目を凝らした。
道の先、左右の影がひときわ濃く絡み合った場所に、何かが立てかけられている。
最初は壊れた戸板のように見え、次に石碑の類かとも思えた。
だが近づくにつれ、それが平らな板ではなく、石碑でもない、張られた画布であることが分かる。
人の背丈ほどもある真っ白な画布が、道の先の闇の中に、不自然なほど静かに立っていた。額縁も、支えるはずの木枠もない。
ただ空間に貼りついたように、そこに“在る”。
ルルリアが息を呑んだ。
「……なによ、あれ」
真っ白な画布の上を、見えない絵筆が走る。
深い森の道が描き出されていく。
高く伸びる樹々の夜の森。
月のない空の下、細い道が一本、奥へと消えている。
ただ、それだけの絵に見えた。
けれど、見ているうちに、画布の中の木々だけが誰かの囁きに応じるように揺れ始めた。
静かな画の中で、白い靄が根元を這い、道の奥へ向かってゆっくりと引いていく。
ルルリアが思わず一歩下がる。
「嘘でしょ……」
絵は、動いていた。
オルクスが低く言う。
「止まれ。あれが最初の門じゃ」
その声には、老剣士らしからぬ慎重さが滲んでいた。
「門……?」
「うむ。ロッセリオの絵よ」
オルクスは枝を少しだけ持ち上げる。
すると枝は、画布の方へ向かってかすかに温みを増した。
「奴は姿より先に絵を置く。見る者の眼と、心の揺れを見るためじゃ」
「最初から試されてるってことね」
ルルリアが乾いた声で言う。
「そういうことじゃ」
その時だった。
画布の表面に変化が起きる。
夜の森を描いていたはずの一角—— 道の脇に立つ古い石碑のあたりへ、じわじわと新しい色が滲み始めた。
誰の手も触れていないのに、新たな筆致が増えていく。
様々な色が絡み合い、形を結び、やがてそれは三人の旅人の姿になった。
ルルリアが息を詰める。
「……今の、わたしたちじゃない」
森の奥、画布の内側から、こちらを見返すような構図だった。
ルミナリスは描かれた自分たちの像を見た。
光る眼を持つ無表情の人形じみた少女。
ルルリアは険しい目で睨みつけ、オルクスは剣を抜いて身構えている。
「違います。少なくとも、現在の私たちではありません」
思考領域で行っていた演算とは無関係の言葉を、ルミナリスは口にしていた。
すると、三人の姿は後ろ姿へ変わり、その足元に一本の道が描き足される。
先ほどまでは無かった道だ。
それは画布の中の森から始まり、石碑の脇を抜け、さらに奥へと続いている。
まるで、こちらが来たことで初めて、その先が“決まった”かのように。
オルクスが低く呟く。
「見定められたな」
「合格ってこと?」
ルルリアの問いに、老剣士はわずかに首を振った。
「まだじゃ。これは、ようやくこちらを描く気になっただけよ」
その時、画布の中の道の脇に小さな光が灯った。
ひとつ。
またひとつ。
森の根元に沿って、青白い灯が連なって灯されていく。
焔ではない、もっと冷たく、もっと静かな、生きた絵具のような光だった。
画布の中で、それらは道を示していた。
だが同時に、三人の立つ石畳の先にも、同じ位置で淡い光が滲み出し始める。
ルルリアが目を見開く。
「え……」
絵の中で灯った道標が、現実の石畳の上にも現れていた。
ぴたりと重なっている。
画布の中の森の道と、こちら側の枝の道が、いま初めて完全に噛み合ったのだ。
オルクスが王樹の枝を胸の前で立てる。
「どうやら、ロッセリオは話くらい、聞く気らしい」
その声音は低い。
だが、ほんのわずかに緊張が緩んでいた。
次回、異界まで来て逢いたい人物ロッセリオに出会うまでを描きます。
拙い文章を一部修正しました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非お目にかかれるようお願いします。




