第1話 花壇の香り
夏の放課後だった。
久遠女学園の校舎は、夕方の光にゆっくりと染まり始めている。昼間の賑やかさが嘘のように、廊下には静かな空気が流れていた。
その校舎の脇に、古い花壇がある。石で囲まれた小さな花壇。手入れはされているものの、どこか年季の入った場所だった。
「ねえ星蘭」
隣を歩いていた朱音が、ふと足を止めた。星蘭も立ち止まる。
夕方の光が花壇の石に長い影を落としていた。二人の足元には、花壇の縁にかかる影が三つ、静かに伸びていた。だが、それに気づく者はいなかった。
「最近さ、裏山の噂知ってる?」
星蘭も足を止める。
「噂、ですか?」
「うん。ほら、夏になると出てくるやつ」
朱音は花壇を覗き込みながら、少し楽しそうに続けた。
「女の子のすすり泣く声が聞こえるんだって」
「……それはまた、ベタですね」
「でしょ? でも面白いのはさ」
朱音がくるりと振り向く。
「歩いてると、自分の足音の他にもう一組聞こえるんだって」
「……もう一組?」
「うん。でも振り向くと、誰もいない」
朱音は肩をすくめた。
「あと、夕方になると甘い匂いがするんだってさ」
そう言って、花壇の花を指さす。
「これ」
白い小さな花だった。水辺の植物のような、静かな形をしている。
「水辺の花みたいね」
朱音が笑う。
「きっと誰かのイタズラだよ。夏の定番怪談」
星蘭は何も言わず、その花を見つめていた。そして、そっと身を屈める。鼻先を近づけた。
香りがふわりと広がる。柑橘のような甘さ。そこに白い花の静かな香りが重なっている。
「……ん?」
星蘭の表情がわずかに変わった。
「どうしたの?」
朱音が首を傾げる。
星蘭は花を見つめたまま、小さく呟いた。
「……この匂い」
「うん?」
「昔、嗅いだことがある気がします」
朱音が笑う。
「そりゃ花だしね」
「ううん」
星蘭はゆっくり首を振る。
「もっと……」
言葉を探すように目を細める。
「夏の匂いと、冷たい水の匂いが混ざった感じ……朱音は記憶にありません? 夏の……裏山で?」
朱音が少し不思議そうな顔になる。
「そんなとこ行ったっけ?」
「……朱音は覚えてないですか?」
「うーん」
朱音は腕を組んだ。
「星蘭と裏山行った記憶とか、私ないよ?」
星蘭も少し困ったように笑う。
「……私も、ないはずなんですけど」
それでも、どこか懐かしい。
そのときだった。
朱音の目が、わずかに揺れた。
「……星蘭」
「うん?」
朱音は花壇の影をじっと見ている。
「今……この花の周り」
声が少し低くなる。
「人影みたいなのが、動いた」
星蘭も影を見る。だが、何もいない。
「気のせい?」
「……かも」
朱音はそう言いながらも、視線を外さなかった。
風が止まっている。花壇の葉は、まったく揺れていない。まるで、この場所だけ空気が閉じているようだった。
「ねえ」
朱音が小さく言う。
「やっぱりさ」
少しだけ声を潜める。
「調べてみない?」
星蘭が目を瞬く。
「裏山?」
「うん」
朱音は笑った。
「夏休み前に片付けといた方が、後で楽じゃん」
星蘭も笑う。
「それは確かに」
二人は花壇を離れた。
その瞬間だった。
風が二人の間を吹き抜け、甘い香りが、背中を追ってくる。優しく。そして、どこか執拗に。
まるで――呼んでいるように。




