外伝 百葉箱の少女
──静かな午後、曇り空から淡く光がこぼれていた。
裏庭の一角、古びた百葉箱のそばに、ふたりの人影が並んでいた。
艶やかな黒髪に淡い紅のルージュ。気品と静謐さをまとった少女の名前は──大杉玲子。柔らかな光を受けて白い肌が浮かび、制服のスカートが風に揺れている。
そしてもう一人。彼女に劣らぬ美貌をもった長身の少女。淡い色のワンピースが揺れ、まるで絵画の一場面のようだった。
──その光景を、二階の廊下から偶然見かけてしまったのが、新倉つばさだった。
「……あれ?」
窓から何気なく外を見ていたつばさが、ぴたりと足を止める。
横を歩いていた美鈴も、つばさの様子に気づき、立ち止まった。
「つばさちゃん?」
つばさの視線の先にあったのは、校舎裏。 百葉箱のそばで、笑顔を交わす玲子と──見知らぬ少女。
長くてすらりとした脚、淡く揺れる髪。 玲子と同じくらいの背の高さで、二人並んだ姿がどこか親密に見えた。
「……あの人、誰だろう……」
ぽつりとつぶやいたつばさの声には、かすかな痛みが混じっていた。
胸の奥が、じんと熱くなる。 理由は分からない。でも、息が詰まるような感覚──これはきっと。
(私……そんなに、玲子先輩のこと……)
自分で思っていた以上に、その存在が大きかったことに、つばさは気づいてしまった。
それを横で見ていた美鈴は、すぐに気づく。
「……つばさ。どうかした?」
「え? あ、ううん、なんでもないよ。行こっか、美鈴!」
笑顔を作ってみせたものの、その歩幅は、どこかぎこちない。
──翌日。
授業が終わった後、つばさはふと足を止め、またあの場所へ目をやる。
すると、昨日と同じ位置に、またあの二人の姿があった。
(……また、話してる……)
玲子は真剣な顔で、何かを語っていた。
少女の方は、昨日とは打って変わって、どこか寂しげな表情をしていた。
それでもその横顔は、やはり美しくて── なぜか、見ているだけで胸がしめつけられる。
(……どうして、こんなに苦しいんだろう)
玲子先輩が誰と何をしていようと、私には関係ない。
そう思おうとした。
でも、できなかった。
(もしかして……好き、なんだ……)
どこか空が遠く見えた。
その夜、つばさは布団にくるまりながらも、何度もあの光景を思い出していた。
玲子先輩と並んで立つ、あの少女。 言葉を交わす玲子先輩のやわらかな笑顔。
──それが、自分には見せたことのない表情のように思えて。
(……私、なんでこんなに気にしてるんだろ)
そう思えば思うほど、心がざわざわと波打っていく。
三日目の放課後。 つばさは、校舎の影を縫うように裏庭へと向かっていた。もう、じっと見ているだけなんて耐えられなかった。
(ちゃんと……聞かなきゃ、嫌だ)
玲子先輩が、誰と、どんな関係なのか。それとも、自分が何か勘違いしてるだけなのか。
心臓がどくどくと音を立てている。けれど足は止まらない。
──百葉箱の前に、やっぱり玲子先輩がいた。 けれど、今日は、少女の姿がなかった。
「……玲子先輩っ!」
思わず声が出ていた。
玲子が、ゆっくりと振り返る。 その表情は、どこか驚いたようで、けれど──すぐに、ふわりと微笑んだ。
「どうしたの、つばさ?」
「先輩、あの人──毎日話してた、あの人って……」
そこまで言って、言葉が詰まる。 問いただすなんて、らしくない。 けれど、黙って見ていることもできなかった。
「……つばさも、あの子のこと、見えてたんだね」
「え?」
玲子は、静かに頷いた。
「ふふ……それなら、もう隠す必要もないね」
玲子がそっと百葉箱に視線を向ける。
「……あの子は、この場所に強い思いを残して亡くなった元学園の生徒。自分が死んだことにも気づかず、ここでさまよっていたの」
つばさは言葉を失った。
「そんな……じゃあ、あの子って……」
「浮遊霊よ。怨みや呪いを持っているわけじゃない。ただ、未練があって、自分がどこにいるのかも、何をしたいのかも分からなくなっていた。それを、ゆっくり解きほぐしてあげてたの」
「……じゃあ、玲子先輩が毎日来てたのって……」
「祓うのは簡単。でも、それじゃあの子の心は救われない。私は、なるべくそういう終わらせ方はしたくないの」
玲子はそう言って、風にそっと髪をなびかせる。
その姿は、どこまでも優しく、どこか儚かった。
「……今日、ようやく少し思い出したみたい。この場所でいつも誰かを待っていたこと、その人に何かを伝えたかったこと……」
「その人って……?」
「生前、親しくしていた後輩がいたみたい。ここは二人の待ち合わせ場所だった。その子に渡したくて、渡せなかった手紙が、ずっと心に引っかかっていた。その未練が、姿を残していた原因だったのかもしれないわ」
玲子は、百葉箱の下にそっと手を伸ばした。
そこには、一枚の古びた封筒が置かれていた。 封筒には、すらりとした筆跡で名前が書かれている。
──誰かの、大切な想いが。
玲子は、静かに目を閉じて呟く。
「《縁結ノ儀──この想い、縁に乗せて届けます》」
その瞬間、百葉箱の足元に淡い光の輪が浮かび、静かに広がった。
柔らかく、あたたかな光。
「……すごい。玲子先輩……すごい人、だね」
「ふふ。今さら気づいたの?」
玲子は、いつものように飄々とした笑みを浮かべる。でも、その笑顔の奥にある想いに、つばさは気づいていた。
(私、なんであんなに不安だったんだろ……)
胸を締めつけていたものが、少しだけほぐれていく。 その代わり、何かあたたかいものが、そこに残る。
「……玲子先輩」
「ん?」
「その……好きです。私、先輩の、そういうところが」
「知ってるわよ?」
「えっ」
にこりと笑う玲子に、つばさは顔を赤らめた。
──翌日の放課後。 玲子は、一冊の記録簿と古びた封筒を手に、図書館を訪れていた。
カウンターの奥、整然と並ぶ書架の間に立っていたのは、若い女性職員。まだ二十代と思しきその人は、制服姿の玲子に気づくと、すぐに微笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、突然で。……あなたが、新藤さん、でいらっしゃいます?」
「はい、そうですが……?」
玲子は静かにうなずいて、手にしていた封筒を差し出した。
「これは、あなたに宛てられた手紙です。送り主は……かつて、あなたの先輩だった方から」
新藤は、最初は不思議そうな顔をしていたが、封筒に書かれた名前を見た瞬間、はっと息を呑んだ。
「……この名前……」
手が震えていた。唇がかすかに開いて、声にならない言葉が浮かぶ。 玲子はそれを、静かに見守っていた。
「……私、ずっと……先輩のこと覚えてた。卒業して、先輩が亡くなったと聞いても、どうしてもこの場所を離れたくなくて。……だから、図書館の仕事を……」
彼女は、手紙を胸に抱きしめ、そっと目を閉じた。
「……ありがとう。きっとあの人は、ずっと、ずっと……私のことを、想っていてくれたんですね」
その瞬間。 図書館の窓の外、木々の隙間から差し込む光が、ひときわ眩しく揺れた。 まるで、それが別れの合図だったかのように──
そしてそのころ、校舎裏の百葉箱の前。
今まで数多く報告されていた「人影の目撃情報」は、それを境にぱたりと途絶えることになる。
静かな風が、百葉箱の扉をやさしく鳴らしていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、霊との関わりが“戦い”ではなく“対話”である一面を描きたくて書きました。
玲子先輩の静かな優しさと、つばさの胸に芽生えた感情が、誰かの心にそっと残れば幸いです。
本編の方も新たな登場人物を迎え新展開となる予定です。
学園に潜む“呪い”と“想い”をめぐる物語を、お楽しみに。