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陰と陽の狭間にて。(仮題)  作者: 熨斗月子
二目。憑き物と撫で物
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第漆拾弐 何処より来る者。

 


 するり、するり。

 歩く度に衣擦れする音が響く。真っ暗な中をぼんやりとしながら歩いてどれほど経つだろうか。ぐるりと周囲を見渡せども、己の出す音以外匂いも何もない。


 この感覚には多少覚えがあった。

 確かあれは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)雅相(まさすけ)の身体にいた時に体験した暗闇だ。

 あの時は温かい心地だったのに、今はその温もりはなく……。


「本当に、いなくなったんだ」


 黒露(こくろ)が自ら作ったと言った人形で身体を撫でた時、何かが抜けたような気はしていたが、雅相としては、こちらの意識の中での方がより実感を持てた。


 あぁ、もう自分を守ってくれる存在はいないんだ。と、不思議なほど強く思えたのだ。

 別になにか思い入れがあるわけでもないのに。


 宇迦之御魂神との付き合いなぞ二月ほどで、しかも初めて声をかけられ、顔を見たのは山籠もりの時以来なのだ。

 警戒ならいざ知らず、寂しく思うようなことは有り得ないのに何故だか心細く感じる。


 しかし、今更泣き言を吐いても後の祭り。今、雅相がすべき事は何故雅相がここに居るかである。


 のそりのそりと歩きつつ、思い返してみる。


 ここで目を覚ます前、つまり外の世で何かがあったはずだ。

 確か意識を失う前は、陰陽寮の書庫で“何か”を調べた後朋である行信(ゆきみち)と帰路を歩いていたはず。その後は、同僚の史充(としみつ)と会って、それから――――。


 その後の記憶が何故だかあやふやで、虚ろに両の手を見つめる。


『私を、無視しないで!』


 すると突然、どこからとも無く響く誰かの悲鳴。

 弾かれたように顔をぐるりと回してみたけれど、声の主はどこにもなく。

 しかし確かに聞こえたその声は、聞き覚えのある行信のものであったのは間違いない。


「あ……そ、うだ。思い出した」


 そこでようやく、靄がかかっていた思考が晴れてきて、記憶の波が押し寄せてくる。

 陰陽寮の書庫で不動金縛法を知ったこと、その後の帰りの途で行信と仲違いをしたこと。

 そして、身体が急に岩のように重くなったかと思えば、地へと伏していると――――海のように冴え冴えとした藍の衣をまとった高龗神(たかおかみのかみ)が現れた事も。


 刹那、胸の内で急激に熱を感じ始める。

 それも火に炙られジリジリと焼かれていく心地だ。あまりの熱さに息がままならず、膝を折って倒れ伏した。


「あ、つい……!」


 蹲って耐えるように胸を押える。ギリギリと歯を食いしばっていると額には球のような脂汗が浮かんでくる始末だ。

 だが、この体内を焼かれていくような心地には覚えがあった。


(こ、れあの時の感覚に、似てる)


 それは、二月前に黒露の手によって怨気を流し込まれた際の感覚だ。

 地獄の業火のような、どろりと爛れた怨気が体内に侵入してきた瞬間、臓腑のあらゆるを溶かされそうになったのを思い出す。

 ただ今回は、怨気の気配を感じないためまた別の何かに攻撃されているのかもしれないが。


 しかしこれが攻撃だとして、誰がやったのか。――――それは明白だった。


「はっ……ま、さか。こくろが、僕を攻撃、してる?」


 すぐそばに居て、且つ雅相に危害を加えたくて仕方の無い者。つまり、今一番身近にいるだろう黒露だ。

 黒露ならば、二月前に雅相に敗れている。

 もちろんあの時黒露が本気ではなかったかもしれないが、それを根に持っていたら……。


「いや、呪印(じゅいん)とやらで、僕の精神と結び付けられているんだから、僕を殺せばどうなるかくらい、黒露も知ってる。そう簡単に殺しにきたり、しないはず」


 もちろんまだ確証はない。呪印の話はあくまで黒露の言い分程度だ。しかし黒露の言葉に、皆が確信を持っていたのだから、無知な雅相は信じる他ない。

 だとすれば、一体誰が――――?


『行信だよ』


 不意にすぐ横から、誰かの呟いた声が聞こえた。その呟きは確かに小さいのに、しかし雅相の耳にこびり付いたように反響して、ぐるぐると脳内へと何度も伝達されてくる。

 勢いよく顔を上げれば、そこにいた者は。


『行信なら、お前に恨みを抱いている可能性はあるでしょ? 散々傷つけたんだから』


 今の雅相がそっくりそのまま生き写されたように、雅相を見下ろしてくるもう一人の雅相であった。


 鮮明に蘇る、山籠もりで見た悪夢。


 燃え上がるような熱が無痛に感じるほど、もう一人の雅相を一心に凝視した。

 先程まで溶かされそうになっていた心の臓が、我を忘れて大きく早鐘を打っていく。

 どくりどくりと打たれる鼓動に合わせるように、ベタつく汗も全身から噴き出してくる。


『行信は確か、不格好な太刀を持っていたね。黒い鞘に収まった、行信曰く喋り出すとかいう変な太刀が。太刀が喋るわけないのにね?』


「やめろ……」


 雅相の顔を覗き込んでくるもう一人の雅相は、歪に笑いながらとつとつと語りかけてくる。

 行信が雅相に危害を加えてくるなんて、あるわけが無いと否定したいのに、否定の言葉は随分と小さかった。


『あはは! きっと狂った行信が、外の世で憎きお前をその喋る太刀で斬ったんだ』


「違う、ちがうちがう。そんなはずない。やめろ」


 聞きたくなくて、信じたくなくて、全てを閉ざすために目をギュッと瞑り、耳を手で塞いだ。


『ここ最近の行信は、どうにもおかしかったもんね。突然怒鳴ってきたり、かと思えば狂ったように笑いだしたり』


「ち、がう。あれは、行信は、悪くない」


『でも、お前は行信の手を弾いたよね。……拒絶、したよね?』


「っちがう!!」


 もう一人の雅相の声を遮断したのに、それでもなお鼓膜の奥で声が響く。

 その声に震えながら違う違うと否定するが、全身の震えは増すばかり。それはある種、真実だと認めているようなものだった。

 実際に、もう一人の雅相が言うことは全て事実だけれども。


 それでも否定せねば、行信との今までの思い出が壊される気がした。


『行信を狂わせた原因を作ったのは、己だって、自覚あるでしょ?』


 唇をグッと噛む。不可抗力だった。

 好きで過去見のことも、為平(なりひら)がどうなるかも隠しているわけじゃない。行信を想ってのことだった。

 知れば傷つくと思ったから。雅相の情は軽くなっても、今度は行信がそれを背負う羽目になるのだから。


(あぁ、そっか。これが、為平が言っていたことなのかな)


 そこでようやく、為平が行方を晦ます直前に言った言葉を噛み締めた。


『私も行信も、君がいいから傍に居る。私たちが厭わしく思わないのなら、変に考えなくていい』


『君が私たちの分まで背負う必要はない』


 雅相の勝手な思い込みで、行信に背負わせてしまうと思った。だから何も言わなかった。言いたくなかった。

 だって、都合の良い暇つぶし相手だから。言う必要はないと思った。


 でもそうじゃない、為平がいなくなってようやくわかった。傍からいなくなってほしくない、見捨てないでと思ったから言えなかったのだ。

 それが分かって、ようやく理解した気がした。

 あの時、為平のことがあんなにも神々しくて眩しいと思えたことが。


『何を勘違いしてるのかしらないけど、行信はただの暇つぶし相手。お前にとっては取るに足らない奴だろ』


「ちがう。行信は暇つぶし相手でも取るに足らない奴でもない。全部僕が、隠し事を秘めていたから遠ざけてたんだ。だからそう思い込んでいた」


 きっとこれが、正解のはずだ。もう一人の雅相に振り回されてきたが、本当は雅相の傍から離れてほしくないからそう考えた。

 そしてもう一人の雅相の考えを鵜呑みにした。


『ふうん。お前の一部である僕の言葉が信用できない、と?』


 勢いよく顔を上げ、確固たる意志でもって大きく首を縦に振った。


『別にそれならそれでいいさ。きっとお前は僕の力を借りれなくなってから、後悔するよ』


「もう一人の僕の、力?」


「ならばその言の葉、真にして進ぜようか」


 もう一人の雅相を呆然と見上げていると、不意に二人の背後より聞き覚えのない声が聞こえた。

 一斉に同じ顔をした二人が振り返れば、そこに佇んでいたのは――――祖父と見紛うほどによく似た雰囲気の男が二人を見ていたのだ。


 目尻の下がった穏やかな瞳は黄金に輝き、祖父の藤色の髪よりもさらに白い藤の髪は、結い上げられて尚もさらりと腰まで流れている。

 その毛先は鮮やかな唐紅に染まり、祖父の見た目よりはやや年嵩のある面差しであった。


 端的に言って、誰? 状態である。


(あれ、でもこの人どこかで)


 そう、確かにどこかで見覚えのある人物だった。それがどこでだったのかは、混乱しているせいか思い出せない。

 なんせここは、雅相の意識の中なのだ。雅相の知らない人物がここに現れるはずがない。


 雅相が困惑する中、男は軽い足捌きで近付いてくると二人の雅相の前に立ちはだかった。

 上背はもう一人の雅相よりも頭三つほど抜きんでている。


「ふむ。一瞬の隙に乗じ、苦労して入り込んだ甲斐があったものよ。まさか、斯様な方が真ここに坐とは」


「あ、のどなたですか?」


 何やらしきりに頷いていた男に勇気を振り絞って問うてみた。

 倒れ伏しているためか、悠然と立つ男の姿から圧を感じてなおの問いである。己に称賛の拍手を浴びせたい。

 すると男が地に伏している雅相に目をやると、何故か男は屈みこんで『さあ、斯様なところで寝てないで起きなさい』と雅相を軽々と持ち上げて立たせたではないか。


 余りの突然の出来事に拒むことも忘れ、呆然と成り行きを見ているしかできなかった。

 さらにいえば、祖父と雰囲気が似ているためかあまり警戒心が湧いてこないのだ。


 男にされるがまま立たされて、されるがままにもう一人の雅相から距離を離されて男の背に庇われる。


「私が誰かなぞ、それこそ取るに足らぬこと。私は過去、記憶によって生じた程度の存在故其方の知るに及ばぬ者よ」


 ようやく雅相の問いに答えてくれたと思えば、男が何を言っているのか全くわからなかった。

 過去や記憶によって生じるとは一体どういう意味なのだろうか? そしてどうやってここに来たのか。


 まず間違いなく言えるのは、徒人ではないという点。


 徒人は他人の夢や意識に出入りすることは不可能だ。そういうことができるのは、やはりそれらを生業とする陰陽師なわけで。

 悪夢を見た際に陰陽師は*夢解きをして、凶夢であった場合に*夢祭をする。

 この夢祭の際に技量により、陰陽師は他人の夢を覗き見て祭儀を行うのだ。となると、この男は相当な技量を持つ陰陽師の可能性が非常に高いことになる。


 つまり夢の卜占に強いため、先見ができる可能性もあり、上級貴族に重宝されるほどの者なのは間違いない。

 だが男の言葉に首をひねる雅相とは対照的に、もう一人の雅相は驚愕に目を見開いて戦慄いていた。


『其方、何をしに来たというのだ』


 まるで怯えているようにも見て取れ、もう一人の雅相の言葉は震えていた。

 それを無邪気にも見える満面の笑みを作り、もう一人の雅相を見る男。


「なに単純な話。ちとばかし、人の情というものを覚え始めた曾孫の手助けができればという親心よ」


 その言葉と同時に、唐突に顔をにこやかにしたままおもむろに左腕をすっとまっすぐに伸ばしたではないか。

 そこから流れるような動作で、左腕をゆるりと頭上へ持っていくと右腕も同じ高さまで持っていった。


 まるで弓と弦を引き絞るようにして、男はもう一人の雅相めがけて構えたのだ。


『なんのつもりだ! 僕に牙を向けるというのか!! 我が義父が黙ってはいまいぞ!』


「ご案ずる召されるな。これはその、義父殿の御力ゆえ」


 その瞬間、限界にまで弦を引き絞っていたのだろう男の右手がぱっと“何か”を手離した。


 何も無いはずなのに、ピインと細く高い弦の弾かれた音が木霊する。それからもう一人の雅相が『ぎゃっ!』と悲鳴を上げるのは一拍置いて直ぐであった。


 なんともう一人の雅相が、頭を何かで射抜かれたのか、ぐらりと体勢崩してよろめいたのだ。


『御身に負ほひし罪の矢に。果つる先の倉稲魂(うかのたま)へ乞ひ願はくは芽吹く命を咲かすこと祈ぎ奉り侍り』


「やめろ! くそっ私に牙を向けたこと、必ずやぐぎっ!?」


 良く分らないことを並べ立てて、息つく暇もなく次々に何も見えない“何か”で男がもう一人の雅相を攻撃していく。

 右手が“何か”を手放すたびに、ピイン、ピインと弦の弾かれた音が何度も空間に響いた。


 しかし、そのどれもがもう一人の雅相に当たっているようにみえるのだが、どれも致命傷には至っていない様子。

 ただ単に、射抜かれているというより、頬や腹など当たる箇所を殴打しているようにも見て取れる。実に痛そうだ。


「ふむ。やはり、この弓と矢では真に欠けるか。まあ、私の神気でもないし、義父殿の御力ゆえ今のうち限界まで使ってアレの脅威を削いでおこうか」


 それでもにこやかな笑みは崩さず、一方的な攻撃を展開する。

 正直第三者視点から見ていると、もう一人の雅相があまりにも哀れに見えて仕方がないのは気のせいではないはずだ。


「あの。何が起きてるのかよく分かんないけど、流石にそろそろやめてあげても」


『何を甘言を申す。あれは本来其方にあってはならぬもの。其方が宿運を超える妨げの者ぞ』


 哀れに思って雅相がもう一人の雅相に助け船を出すと、男はそれまでにこやかであった表情を一変させ、睨む勢いで黄金の瞳を細めて雅相を一瞥した。

 その表情が、以前祖父も同じように金の瞳で雅相を射抜いていたのを思い起こさせる。

 思わず雅相は委縮してしまい、グッと言葉を飲み込んだ。


 そうしてしばらく続く一方的な攻撃を諦観し続け、どれ程経っただろうか。ようやく男の攻撃の手が止んだ。


『これまでか』


「うっ……ひどい」


 ぽつりと男が呟いた視線の先には――――目も当てられぬほど、無惨に変わり果てたもう一人の雅相の姿であった。

 顔や体中をぼこぼこに殴打されたように、腫れ上がったり手足が折れ曲がってしまったりしている。

 なんと無慈悲で残酷な、と思わず目を覆ってしまいたくなる。


『殺すことはできなんだが、これでしばらくは悪さは出来まい。あの者には相当な神気の矢を浴びせたのだから、修復に専念する他あるまいて』


 そこでふと疑問が湧いて出てきた。

 確かもう一人の雅相は、雅相自身の一部だなんだといっていたはず。

 意識の中での一部ということは、少なからず雅相にも何かしら影響が見受けられるはずなのだが……その影すら全く現れていない。

 もう一人の雅相は、あんなに血まみれのぼこぼこなのに、だ。


「あの、言問いたき疑があるんですが。もう一人の僕は僕の一部だって聞いてたんですけど、僕は何も痛くない。これって一体?」


『いや、大まかに言えば違う。アレは本来其方とはなにも関わりのなかったもの。だが時を経てそうなっていっておる。其方の過去見はいつ頃から頻出し始めた?』


 何か知ってるのかな? と安易に聞いてみれば、まさか誰にも言っていない過去見の話が出てくるとは思わず驚愕に目を白黒させた。

 どういえばいいか分からず、しどろもどろに「あの」とか「えっと」とばかり濁した言葉しか出てこない。


 それに男は業を煮やしたのか、『まあよい』と首を振って何の気なしに雅相の頭に手を置いてきた。

 その瞬間、驚きのあまり雅相は硬直する。


『其方はこれからも、その神憑きしやすい体質によって神に愛でられるのが見える。過去見なぞ些末なこと』


 それは本人からしたら些末どころの話ではないのだが、今の雅相はただ目を気持ちよさげに細めて男の声に耳を傾けるだけであった。


『それもこれも、全ては天の気質故。この国で混淆し化現する仏神を受け入れられるほどの器。高龗神然り、宇迦之御魂神然り』


 黙って頭を撫でられながら話を聞くうちに、だんだんと思考がぼんやりとしてくる。端的に言えば、眠いと表現するのが近しいだろうか。


 むろん男の話が眠気を誘うものではないのだが、ゆらりゆらりと頭を撫でられるうちに視界も思考も鈍くなってきたのだ。

 それでも、今まで雅相の体内にいたとされる高龗神や宇迦之御魂神の名が出てきたのかが疑問に思えてしまう。


「な、んで、二座の、なを」


 しかし頑張って出した雅相の声は、もはや呂律も怪しく掠れていた。


『良い良い、無理はせず眠りに身を任せなさい。外で其方を案ずる御方がいるのだから、はよう其方が目を覚まして心の不安を取って差し上げよ』


 男の声が一言ごとに静かな音色を立てるように眠りを誘い、ついに雅相のまぶたは耐え切れなくなって視界を閉ざしてしまう。

 ゆふらりゆふらりと揺れる心地を感じながら、暗闇へと沈んでいった。


『其方ならばきっと、其方の宿運を乗り越えられよう。雅相の平安を何処より祈願しておる。オン・シラ・バッタ・ニリ・ウン・ソワカ。オン・シラ・バッタ・ニリ・ウン・ソワカ……』


 深淵へと落ちていく中、男の優しい声色が木霊する。何度も復唱される聞き慣れない真言を耳にしながら、雅相は意識を闇の海原へと沈ませていった。

注釈

 夢解き……貴族が気になる夢を見た際に、陰陽師らが夢の内容を調べたり吉凶判断する。

この他に吉備真備の逸話では、夢買いというものもある。これは他人の夢を聞いた陰陽師らから夢を買い、出世するというものである。


夢祭……凶夢の際に、災いが起こらないよう神仏に祈願する祭儀。



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