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陰と陽の狭間にて。(仮題)  作者: 熨斗月子
二目。憑き物と撫で物
64/82

第陸拾 高き壁。

 


「も、むり! 一歩も、動けない!!」


 ぜえぜえ、はあはあと息を切らせながら、全身汗びっしょりな雅相(まさすけ)が地面の上で大の字になって、ジタバタ駄々をこねながら叫ぶ。

 空を見上げれば、午正刻の太鼓の音ともに開かれる市井にいた時よりも、日の位置は下りに差し掛かっていて抜けるように青い。


 そんな駄々っ子の隣には、地に腰を落ち着かせ水を入れた細長い(ひさご)に口をつけて水分補給をする、木筋分家の為平(なりひら)の姿があった。


「ふう……。流石に、市井からここまで一時(にじかん)で来いってのは、無茶苦茶だったね」

「ほんとだよ! 鬼! 外道! 野草莫迦!!」


 最後の言葉は不可解なものの、雅相のもっともな激怒ぶりに為平は苦笑を漏らしていた。

 あれから市井にて養父母と別れた後、雅相と為平、そして黒露(こくろ)はとある山を目指した。

 その山というのが、都の北に鎮座している“貴布禰山(きふねやま)”という、*龍穴(りゅうけつ)の上に建立されている貴布禰神社本宮が御神体として祀っている霊山だ。


 ちなみに、二月前に祖父が障穴(しょうけつ)を調伏するために訪れた四霊山のうち、鞍馬山(くらまやま)という霊山の隣にあり、ともに都の北方を結界の一つとして守護する地になる。


「まあでも、市井からここまでおよそ二時(よじかん)かかるのを、半ばまで短縮できたことをまずは喜ぼう」

「うー……」

 そう言って雅相を諭しながら、為平が持っている瓢を寝そべる雅相へと手渡す。雅相は差し出されたものを見て、勢いよく起き上がると為平の手のものを強奪するようにひったくって水を呷り始めた。


 確かに徒人の足ならば、二時ほどはかかるだろうところを、雅相も為平も半分まで短縮できたのだ。

 雅相の場合は、既に内に眠る白狐の血を覚醒させているため、人離れした身体能力を発揮できるのでまだ理屈は通るだろう。とはいえ、元から体力ない・今までまともに鍛えていない・もともと短距離向きで持久力もない、のないない尽くしなため、化け物の心の臓に毛が生えた程度ではあるけれども。


 それに対して為平は、いくら白狐の血が流れる安倍一族とはいえ、覚醒をしていない妖人なため見鬼の才を持った徒人同然だ。

 なのに、ともに休憩している為平はといえば、軽く汗を拭う程度で覚醒をしている雅相よりもはるかに余裕がある風であった。


「そういえば、あの黒猫はどこへ行ったんだろうね」

 未だに色々と納得がいかずに唸っている雅相を後目に、為平が辺りを見回している。

 それに倣って雅相も顔を忙しなく巡らせた。


 鬱蒼と生い茂る杉の木に囲まれて、木々の隙間から陽の光がチラチラと見える。だが充分な陽射しが差し込まないせいか、周囲の葉を揺らす風は清涼でとても心地良かった。

 気付けば、先程まで雅相を覆っていた汗はすっかり引いていて狩衣も乾いていた。


 しかし、当の探し人ならぬ探し猫の姿はなかった。


 二人で山に来い、と市井で一方的に告げて以降黒露は忽然と姿をくらませてしまい、取り敢えず二人で衆目から隠れるため隠形して、山を登ってきたのが現状だ。

 呪印(しゅいん)の件があるため、おそらく近くにはいるのだろうが、試す目的で二人の様子をどこかで窺っているのかもしれない。


「たぶん、そんなに遠くには行けないだろうから、近くにいるとは思うよ」

「そうなのかい?」

 確証はいまいちではあったが、とりあえず為平の言葉に首肯する。

 そも呪印というものがなんなのか、また黒露と雅相の魂魄(こんぱく)と精神を結び付けたことによってどんな作用を齎しているのか曖昧なため、本当にその“呪いの印”とやらが双方間にあるのかも謎ではあるが。

 黒露や夢の中で見た菅原倖人(すがわらのゆきひと)が、そう言っていたのだから……無知な雅相には彼らの言葉を信じるほかなかった。


(でも、互いに(こころ)が読めるって言われたけど、今のところ黒露のそれらしいものって僕の方は見れていないからなあ)


 唯一黒露の情と()()()声を聴いたのは、修業での一件のみである。その一方で黒露の方も、はっきりとものを言わないため、雅相の情が見えているのかも微妙なところだ。

 ただ、軽足(かるあし)と戦った時の――――黒露の言葉に呼応するように、勝手に動いた雅相の身体についてはまさしく一心同体と捉えても過言はないだろう。

 あれが呪印のせいであったというのならば、確かに双方は深い部分で繋がっているのかもしれない。


 これまでのことをぼんやりと思い返しながら、持っていた瓢を手近な岩の上に据え置く。


「まあ。それよりさ、暇だし修業らしいことでもしようよ」

「修業らしいこと?」

 雅相の言葉に、為平が巡らせていた視線を戻して見据えてくる。

 それに答えんばかりにおもむろに立ち上がると、雅相は「うん!」と意気込んだ。


「せっかく山まで来たんだ。組手とかさ。なんなら、術比べでもする?」

「あはは! 血気盛んだね。そういうの嫌いじゃないよ」

 楽し気に笑みをこぼす為平が選んだ修業は、組手であった。まあ、帰りのことを考えれば、人の活力となる霊力をここで消費するのは得策ではないと判断したのだろうけれども。


 そんな雅相も為平も、自然に歩みを進めて、生い茂る木々を縫いながら距離を取り始める。


 今回行う組手は、武器や装身具などなしの身一つでの攻防戦だ。どちらかが降参・或いは戦闘不能になれば勝ちとなる。普通の貴族ならばまず汚れるし、痛みを伴う恐れがあるため好まない形式だ。


「いつでもおいで」

 遠くにいる為平が、間を見極めながら挑発してくる。対する雅相も、そんなものに動じることなく為平との間合いを見計らいながら、ゆっくりとした動作で地に落ちている葉を踏み締めた。

 夜廻(よまわり)などで、既に幾度も闘いを経ているのだ。下手に突っ込むのは、さすがに得策ではないことくらいは理解していた。

 それに黒露の教えどおりに、相手から絶対に目を離さぬように情を落ち着かせる意味でも、突っ込むのはやはり得策ではないと雅相なりに判断しているのだ。


「為平こそ早く来なよ? 表情が、早く()()の僕を殴りたそうにしてるけど」

 遠くに見える錫色の瞳がすっと細められる。その口元にたたえられているのは、獰猛に歯を薄く覗かせる笑みであった。


 ――――その瞬間、互いに間合いを見計らっていたものが突如として均衡を崩す。

 為平が、雅相の言葉に乗るように動き出したのだ。


「よく、表情(かお)を、見ているねっ!」


 雅相へと瞬時に詰めた為平が、初撃で繰り出してきたのは、上段からの踵落としであった。

 一歩遅れて、雅相は両腕を頭上で交差させて防ぐ。


(はっや! おっも!?)


 反応に遅れつつも辛うじて防いだ為平の初撃は、身構えて力んでいなければ地面に足を付けてしまいそうになるほど重かった。

 だが、雅相とてそこで地面に伏すわけにも行かないため、後ろ足を軸に地面を抉るほど後退しながら、組んでいた手を勢いに任せて薙ぎ払う。


 先手を打って弾かれた為平は、何ごともなかったように宙で軽やかに一回転すると、すとんと見事に受身を取って着地した。


「っなに、その身のこなし」


 詰めていた息を一気に吐き出して、頬に伝う汗を乱暴に拭う。

 対して為平は、やはり涼し気な態度だ。


「なにって、私とて体を鍛えることくらいはするさ。いずれ宗家に連れていかれるかもしれない身、だからね」


 くすくすとおかしそうに為平が笑う。しかし、次第に表情を崩していくと今度は首をゆるりと傾げた。


「それにしても……雅相は、もう息が上がってるのかい? 随分と体力がないね」

「っ僕は、」

 そこで言葉を強引に噛み切る。それが皮切りだと言わんばかりに、今度は雅相が為平へと襲い掛かったのだ。

 為平の繰り出した初撃が踵落としならば、雅相の初撃は横腹に突き刺す勢いの蹴りであった。


「超短期戦向きなんだよぉ!!」

 沓を履いたままな上に、緩やかな斜面になっている地をものともせず、強烈な蹴りを為平へと見舞う。

 しかし、雅相の予想通り先ほどの身のこなしを見ていたが故に、雅相の横蹴りはあえなく躱されてしまう。

 無論予想をしていたのだから、その先を読んで為平の次の行動・身を置く場所を予測して雅相が突き出していた足をすぐに引き、再度の追撃を行った。


「っと」

 二撃目の、素早く反対足に切り替えた足蹴を行うが、これも躱されてしまう。為平は小さく言葉と息を切ると、そのまま軽やかにつま先のみで地面を蹴って後退していった。


「やるね、雅相」

「ほんと、なんなのその身軽な動き」

 行き場を失くした雅相の足蹴がゆっくりと下ろされていく。


(くそ。さすがに、初撃で仕留められるわけないか)


 為平を睨みつけながら、雅相は汗の滲む頬を拭った。

 正直な話、着ているものや環境などは互いに造りなどは一緒なのに、為平に初っ端から見せつけられた力の差が歴然としていることに、雅相は焦りを覚え始めていた。

 いつの間にか、涼しかった山の風も今の雅相にとっては頬を撫ぜる風が温めに感じ、体内の熱が上がっていることに顔をしかめる。


「ねえ雅相、烏帽子も沓も邪魔だろうし取ってみたら?」

「はあ?」

 温い風に不快感を感じていると、為平の突拍子もない提案でさらに眉間にしわを刻みつける。


「ほら、夜廻でも君は烏帽子を取っていただろう? あれって、動く際に邪魔だから被っていないということじゃないのかい?」

「まあ……」

「なら、夜廻の時と同様に動きやすくしたまえ。ついでに地面も傾斜だ、沓も邪魔だろうから脱ぐといい」


 為平にとっては、雅相を気遣った親切心から沓も烏帽子も脱げという提案をしたのかもしれない。が、雅相の捉え方は違った。

 要はお前弱いから、同じ条件では苦しいだろう? だから枷となる烏帽子も沓も脱げよ。と捉えたのだ。


 数舜の思考の間。


 答えにたどり着いた雅相のこめかみ辺りから、ぶちりと何かが切れたような音が鳴った気がした。


「……いいよ。為平の言葉通りにしてやる」

 黒く漆の塗られた沓を脱ぎ、薄めの生地でできた烏帽子も取って瓢の置かれている岩の方に丁寧に置く。

 そして、烏帽子のために頭頂部で束ね結われていた(もとどり)をしゅるりと解けば――――結んでいた紐で乱雑に腰まである黒髪を下げ結った。


「その代わり、僕を辱めたんだ。為平にも、同様に烏帽子をぶんどって辱めてやる」

 刹那、視線を為平に向けて雅相がぎろりと睨みつける。だが、その睨む墨色の眼差しとは裏腹に、幼さの残る口元にはそれまで見たこともない獰猛な笑みが浮かび上がっていた。

 それを目にした為平は、一瞬錫色の瞳を丸くさせていたが、徐々に表情を緩慢にさせて雅相と同じように笑みを作るのだった。




 ***




「くそっ!」

 木々の合間を掻い潜りながら、雅相が忌々し気に吐き捨てる。遠方では同様に、為平が雅相との距離を測りつつ段々と詰めてきていた。このままではいつどこから攻撃を仕掛けられてこられるか分かったものではない。

 すでに幾度か攻撃を交じ合わせているものの、雅相の防戦一方であった。いや、むしろ後手に回りつつある。


 一つ一つが重い攻撃を繰り出す拳、なのに俊敏な動きを可能とする脚力。見目では細く見えるのに、細いだろうと油断するとおそらく痛い目を見るだろう。


(どんな鍛え方したら、こんなに動けるんだよ)


 息をできるだけ吸い込んで、吐く量を少なく短くする。そうすれば、突然息切れを起こして隙を与える心配もある程度は軽減できよう。……ただ、こんな芸当、闘いの最中で一度とて雅相はやったことがない。する必要性がなかったから。


 今の今まで全て術や真言などに頼っていたため、呼吸を意識する必要がなかったからだ。呼吸へ意識を向けられただけでも、雅相自身としては成長を感じられて大手を振るって喜びたいところ。もちろん、そんな暇はないけれども。


「もっと集中しろ、雅相ー!」

「っやってる……っての!」

 息も絶え絶えに、雅相が悪態をつく。

 視線をわずかに為平の頭上へと向ければ、為平の頭には未だに烏帽子が何事もなく聳え立っている。あれさえ取れれば、とは思いつつもなかなか為平の方が隙を与えてくれないため取れないのだ。


 思わず額に汗を浮かべる雅相が、舌を打つ。


 ――――刹那、雅相の舌打ちに呼応するように、おもむろに為平が距離を詰めてきた。


「動きが鈍くなってるようだけど? もしかして、疲れちゃったかい」

 軽い足さばきで一気に詰めてきた為平が、蟀谷(こめかみ)めがけて鋭い足刀(そくとう)蹴りを仕掛けてきた。それを片腕で雅相は即座に防ぐ。

 為平の足骨と雅相の腕骨が強烈にぶつかった瞬間、雅相の腕が悲鳴を上げるがごとく軋む音をわずかに響かせた。


「ぐ、ぎぃ……!」

 腕から雷鳴のように伝ってきた鋭痛に、思わず雅相が詰めていた息を吐き出してしまう。


(なんで、なんでこんなに強いんだよ。僕だって、化け物になってから、こんなに自分が動けるなんてただでさえ驚きなのに、それをなんで軽く上回ってくるんだよ!)


 喉にまで出かかっていた言葉を無理矢理に押し込んで、力と気合を入れ直すために瞬時に息を吸い込もうとするも――――。


「させ、ないよ!」

 為平が、防がれている足刀部へ向けて体重を乗せてきたのだ。さすがに息を詰めていない状態では、片腕のみで耐えることができずに防いでいた片腕ごと全身の均衡を崩してしまう。


(まずっ)


 言葉にはならなかったものの、雅相の頭の中で劈かんばかりに警鐘が鳴り響く。それと同時に、視界にゆるゆると流れていく、為平が足刀蹴りからの追撃を行うために軸にしていた片足を軽く浮かせて入れ替える場面――――。

 まるで目の前の光景が、これから雅相に襲い掛かってくる攻撃だとはとても思えないような、遠くに感じる情景が過ぎ行く。


「……あ、」

 だが、達観していた意識を戻してみれば――――目の前にはいつの間にか、為平の漆の塗られた沓から見える、足の甲が目鼻先にあった。

 それを理解した途端に、全身から力が抜けてしまってその場にへたり込んでしまう。


「はい、雅相の負け」

「うっあ、ぅ」

 するすると足を下ろしていく為平を見上げながら、雅相はようやく肺に空気を取り入れることができて、深く息を吐き出した。


 負けた。


 別に悔しいわけではない。これまでにも幾度も負けることはあったから。実兄だったり、黒露だったりと存外負けっぱなしの人生なのだ。

 でも、それでも……白狐と言う血を覚醒させて化け物になって、いつの間にか貧弱だった雅相の身体能力が上がったというのに、それを実感して堪能する暇さえ与えられずに再び“為平”という高い壁を突き付けられた。いつも慎重に考えてばかりで自信のない雅相に、自信を付けられる好機を、取られてしまった。


「な、んでそんなに」

 強いんだ。そう為平に問いたかったが、後半は声が震えてしまって音にならなかった。

 呆然とする雅相のことを察してくれたのか、為平がぱたぱたと手で顔を仰ぎながらにこやかに微笑む。


「特段、何か特別なこととか苦行だとかはしてないよ。それに、私は別に強さが欲しいわけじゃない」

 ぼうっと為平を見つめる。

 しかし、へたりこんだ膝の上に置いていた拳に、微かに力を込めた。


「ただ、私は――――大切な人を守ることができるのなら、なんだって手に入れたい。それだけさ」

 だから、為平はそのために必要な力を身に着けた。別に欲しくもない、強さを手に入れた。化け物になった雅相よりも、はるかに強い力を手にして。


(大切な、人)


 為平の言葉を、内で反芻する。雅相には、為平の“大切な人”について心当たりがあった。

 慕う女人などはいないと言っていたし、ここ最近でともに居た時間も多かったが、彼の陰にそれらしい人物も見えなかった。とするならば、一人しかいない。

 先日の棚機の時に、触れてしまったがために為平の過去を垣間見た際に出てきた、同じ瞳の色を持つ人物。


「……もしかして、春葉(かずは)?」

 つい出てしまった言葉に、はっとなってとっさに口をふさぐ。

 無論時すでに遅しなのだが、恐る恐る為平を見上げてみれば驚いた顔をしていた。が、雅相と目が合った途端表情を一変させて穏やかに笑った。


「なーいしょ」

 為平は軽い口調で言うと、雅相に向けて手を指し出す。それに特段拒む理由もなかったので、雅相はがっしりと掴んで引き上げてもらった。


 いつの間にか、杉の木を照らしていた日差しの色は橙色に染まり始めており、雅相の頬を撫でる秋風も冷たくなり始めていたのだった。

注釈

 龍穴……陰陽道や古代道教、風水術における繁栄するとされている土地のこと。ここでは霊山から吹き出る霊力が流れ、その霊力が溜まった神聖な土地としています。


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