第陸拾壱 異端。
黒露視点
じっと、雅相と為平が組手を行うさまを杉の木の上から身を屈めて見つめる視線が一つ。
緩やかに風になびく結われた黒髪をそのままに、赤い眼差しは薄く細められ、雅相と為平を交互に見やった。
「……やはり、おかしい」
ぽつりと呟かれた声が、互いの目の前の敵に集中している二人に届くはずもなく。互いに攻防を、いや、若干雅相が押され気味のさまを冷めた視線でもって、膝に頬杖を突きながら黒露は見下げた。今の黒露の姿は、猫ではなく白い骨のような角を一本額に備えた鬼の姿であった。
そして、黒露の視線がやはり一番奪われたのは、安倍分家である庶子の身分の安倍為平で。
雅相ならいざ知らず、血の覚醒をしていないただの人間が、隠形を使いながら一時で北方の山まで登ってきたのだ。それも、化け物に近い雅相よりもはるかに体力を温存した状態で、だ。
(有り得ない。仮に鍛錬による身体強化をしていたとしても、所詮はこの現世に生まれた蒼生人。それに、雅相のような膨大な力でも持ち合わせていない限り、普通の者は隠形をしただけで疲弊するというに)
のろまな雅相の攻撃を容易く躱していく為平を、目でしきりに追っていく。
隠形の術というのは、黒露も常にやっていることだが蒼生人がそうそう使う術ではない。用途的には、陽炎・威光を神格化した摩利支天の法を元にしたもので、外敵の一切から身を隠せる優れた術である。
故に行使する際、内にある霊力を全身にまとうため、活力となる霊力が無駄に在り余っている者しか使いたがらない。そのあとに術だなんだと行使しようものなら、気絶必至だからである。
それに加えて為平の体裁き、軽やかな身のこなしは常人の域を優に出ていると来た。もしかすると、身体を鍛えない並の官人陰陽師では、太刀打ちできないのではないだろうか。
今の為平に渡り合える人物を上げるのだとすれば、黒露の知る限りでは――――恐らく“藤の狐”くらいだろう。
「為平は、一体何者なんだ?」
出会ったのは一月ほど前になる。確か木筋分家の葬儀だったはずだ。その時は、ここまでの霊力を為平からは一切感じなかったし、むしろ現状の半分もなかった。しかし丹後から戻ってから半月で、あの少年は以前とは比べ物にならないほど日毎に霊力を増幅させていくばかり。
普通は、体内に保有する霊力は生まれた時から決まっているためそうそう増幅することはない。どうしても増幅させたい者の方法としては、苦行を強いて魂魄を磨き且つ肉体を鍛え、血肉を増やすという修験者さながらな修行法が不可欠だ。
そう考えると、為平の身体能力の高さと霊力の高さは、ある程度比例するが……それでもこの短期間でこの霊力の増幅は異常すぎる。一体、どんな過酷な修行をすれば大妖並の力を手にすることができるのやらか。
「健よかなる肉体には大いなる霊力が宿るとされているが、いくらなんでも宿り過ぎだ」
さらに言えば、この都では健よかなる肉体を手にするのは容易ではない。まず、基本的に陰陽道では人の筋や肉を作るのに必要な獣肉食を禁忌としているからだ。代わりに鳥や真魚が、この都ではよく食されている。だが、それらも高級食材として重宝されているため、下級貴族以下の口に入ることは滅多にない。無論、庶民の中には禁を破って獣肉を売り捌くもの達もいるし食うもの達もいるのも事実。
しかし為平は、仮にも安倍一族の分家だ。陰陽道を重んじる人間が禁を破るとは到底思えない。
ならば、その肉体を作り上げるに必要な栄養は一体どこから摂取しているのか?
(そう言えば、アレの双子の姉が奇妙なことを言っていたな)
ふむ、と顎を手で擦りながら棚機の時のことを思い出す。確かあれは――――藤の狐が、豊楽院から天文博士とともに天文部へと向かった後のこと。
雅相が酔って寝た為平を届けるため、一人で木筋の分家に運んでいた。その時門前まで行くと、そこには白の小袖に萩色の袿を羽織った姿の為平の双子の姉、春葉が不安気な表情をして頼りない灯火を片手に待っていたのだ。
雅相が近寄ると、春葉は驚いた顔をして雅相の肩に凭れる為平を見た。
『為平、どうしちゃったの? 怪我したの?』
『い、いや。酒を飲み過ぎたみたいで、酔って寝ちゃったんだ』
雅相からそれを聞いた途端、驚いた顔をする為平と同色の錫の瞳がさらに大きく見開かれる。そっと為平に伸びる春葉の指が、微かに震えているように見えた。
『為平が? そんなこと、あるわけ……。今の今まで酒に呑まれたことなんてなかったのに』
『そうなの?』
眉をしかめて怪訝そうに首を傾げる雅相だが、春葉が突然冗談や嘘を言うはずがない。それに春葉の顔色を見ればわかる、青褪めているのだ。
取り敢えず、雅相が女人では重いだろうと邸まで運び込むよと申し出るが、春葉は首を振って拒否する。そして己の袖を手繰ると、式符を一枚取り出した。どうやら、式神に運んでもらう魂胆のようだ。
『為平、重かった?』
春葉が式符に息を吹きかけて、地へと放ちながら雅相に問う。それに雅相は『うん』と首肯した。
『細い見目の割には、結構鍛えてるんだね』
『……えぇ』
すると、春葉が息を吹きかけた式符がみるみる姿形をかえて、目や鼻がない女鬼へと変貌した。
『昔から鍛えていたわ。でも、この一月で見違えるほど身体が異常発達してる。驚異的な速さで』
顔のない女鬼は雅相から為平を預かると、肩に背負ってそのまま邸の中へと戻っていった。門前には、雅相と春葉、そして隠形している黒露のみとなる。
『なのに、食べる量が二月前よりも一気に減った。一体、どこから為平の筋や肉は栄養を得ているのかしらね』
為平が入っていった方を見つめながら、春葉は神妙な面持ちでそう語った。
つまり、栄養の摂取量以上に為平は身体向上をしているということになる。だが、人は突然身体が発達することはない。月日を少しずつ経て成長するのがこの世の通常の在り方だ。では、春葉の言葉の意味するところとは?
意識を戻すため、黒露は数度瞬きを繰り返して目の前の景色を眺めた。
「……報せるべきか?」
無論報せる相手は藤の狐に他ならない。が、市井でのことをふと思い出して、その必要はないだろうと考えを思い直す。
すでに雅相の養父、安倍吉房が為平を目視しているのだ。肉体的なことは分からないまでも、この異常な霊力の高まりは見過ごせるものではない。故に、恐らくすでに吉房経由で藤の狐の耳に入っているはずなため、黒露の出る幕ではないだろう。
それに何よりも、吉房自身が目にしているのだ。
為平の身に起こっている異常傾向に、身に覚えがあるだろうあの男が。
無論、全てが一致していると言うわけではないだろう。百年前に、吉房が深く関わった安倍家の内々で起きた騒動に。
(ただ、厄介な点が一つある。あの男の封術が、どこまで吉房の力を封じているか、だ)
しかし黒露は、百年前に起きた安倍家の騒動に関して安倍一族ではないため、詳しくは知らない。とはいえ、稀代の陰陽師と謳われた安倍晴明が、得意とする呪術で吉房に施した術でし損なうとは到底思えないけれども。
ただ、やはり信用できないのもまた事実。黒露自身、一度だけ安倍晴明に呪術の類でヘマされたことがあるからだ。
故意なのか、はたまた偶然だったのかは別として。
これ以上の詮索は憶測でしかなくなるため、黒露は脳内を切り替えるように、息を軽く吐くと頭を振った。
「ん。勝敗が決まったようだな」
目下では、どうやら二人の勝負は決まっていたようで、為平が地にへたり込む雅相に手を差し伸べて引き上げる光景だった。
ならばと、これ以上の鑑賞は無意味と判断して、黒露はするりと杉の木から身を落とした。
そしてとん、と軽やかに二人のいる傍へと着地をする。……が、やはりと言えばそうなのだが、為平も雅相も隣にいる黒露には一切見向きもしてこないではないか。
「おい、お前ら」
「わっ!?」
黒露が、いつも通りの素気無い態度で声を出せば、いの一番に驚きを表したのは雅相だった。そのまま、貧弱な飼い主は虫の動きさながらにさささっと後退していくのだが、今黒露が用がある相手は雅相ではない。
もちろん、為平だ。
遠くへと後ずさっていった雅相を後目に、黒露は為平の方へと視線を投げた。
「っ勿怪が、何故まだ日の出ている頃に、いるんだ」
黒露の向ける視線の先いた為平は、いつの間にか己の袖から取り出した呪符を手に身構えていたのだ。その表情は、額に汗を滲ませて脅威が迫ったような焦りの見えるものであった。
何故、こんなに警戒されなければならないのか、と少々不本意さに眉根をしかめる黒露であったが、とあることに思い当たる。というか、黒露のことを“勿怪”と呼ぶ時点で、そうとしか思い至れないが。
「そうか。お前にこの姿を晒すのは、初めてだったな」
「な、何の話かな。というか、勿怪にしては随分と落ち着いた物言いをするね」
そんなことを引きつった笑みをしながら為平が言うが、彼の身体は少しずつ黒露から距離を取ろうと足を後退させていた。つまるところ、黒露と戦うため臨戦態勢を取ろうとしているのだ。
(……ちょうどいい。此奴の力量を計ってみるか)
これから一から説明をするのかと若干面倒になっていたが、何も知らない上に未知の力を持つ為平がその気なのだ。戦って分からせるのと同時に、為平の力量を計れる今が絶好の機会だとも言えるわけで――――。逃す手はないだろうと、黒露は薄く笑みを作る。
それを目にした為平が、つばを嚥下した姿が赤い瞳に映りこんだ。
「ちょ、ちょっと待てよ二人とも!」
黒露も腰を低くし、臨戦態勢に入っていたが……そこへ慌てて割り込んでくる影があった。無論、雅相だ。
虫のような動きをして遠くへ行っていたはずの少年は、二人の異様な雰囲気を察してか急いで戻ってきたようだ。
「邪魔だ。退いていろ」
「危ないから下がっていてくれ。雅相」
しかし二人から同時に邪険に扱われ、雅相がうっと身を引いた。
恐らく、黒露と為平の雰囲気がいつもと違ったが故に、躊躇ったのかもしれない。
陽が落ち始めて、ゆったりと橙色が周囲に茂る木々を眩く照らす。もっとも黄泉と現世の境が曖昧となる刻、逢魔が時がもう間もなく訪れる頃合いだ。
それ故に、人は黄泉に呑まれる異様な空を恐れて、邸に篭る頃でもある。
「かかってこい。白狐の成り損ない」
黒露が鳳仙花のように鮮やかに赤く長い爪を、挑発的に二度微かに動かす。
その瞬間、夕影の微かな温かさを含んだ風が黒露の高く結った黒髪を揺らしながら駆け抜けていく。それを合図だとばかりに、為平が一気に黒露目掛けて踏み出した。
だが、ついさきほどまで行われていた組手の比ではないほどの速さではないか。
「ふん。お前、雅相との組手で手を抜いていたな?」
「っく」
大仰に曲線を描きながら迫る為平に、黒露の言葉が聞こえたのか顔を歪ませていた。どうやら黒露の読みは当たっていたようだ。おかげで、黒露の後方で見守っている雅相から「え……」という、絶句した言葉が聞こえたが。
「雅相の諱を、勿怪如きが口にしないでくれたまえっ!!」
敵と認識した黒露へ、為平が怒号を轟かせる。刹那、為平は手にしていた呪符を投げ放つ。
勢いよく宙を駆け抜ける呪符は、一直線に身動き一つしない黒露へと迫った。
「甘いな」
たった一言。黒露は拍子抜けだとばかりに無表情で呟いた。と、同時に、差し迫った為平の呪符を腰を低くした体勢から狙い澄まして、回し蹴りで呪符をいとも容易く叩き落としたのだ。
地へと叩き落とされた呪符は怨気の業火をまとって、一瞬にして溶けていった。
それを目にした為平が、驚きだとばかりに錫色の眼を見開く。
「なら、」
しかし絶句も束の間、黒露へと差し迫る中で今度は袖の中から小さな木でできた緩やかに丸みのある棒のような物を取り出す。そして、薄っすらと切れ込みの見える棒をおもむろに引き抜いた。
それは、台盤所やはたまた元服だったり臍の緒を切ったりなど武器の他に日常使い用によくみかける小さな刃物で。官人陰陽師ならばいざ知らず、一端の暦得業生の為平が持っていると違和感のある代物。
橙色が反射して、燃えるような色を放つ刀子を為平が閃かせる。
「謹請し奉る、降臨諸神諸真人、縛鬼伏邪、百鬼消除、急々如律令」
次いで刀子の刀身に向けて、空いた手で素早く五芒星を描き始めたのだ。瞬く間に刀子は目が眩みそうなほど美しげな翡翠色の輝きを放ち始めた。為平が、刀子に己の霊力を注ぎ込んで呪具化させたのだ。
たちまち、辺りを包むほどに発光する刀子とともに速度を落とすことも無く、為平が突進する。
「黒露! さすがにあの膨大な木の霊力は不味いって!!」
後方から雅相の焦りを含んだ声が聞こえた。確かに、並の相生関係にある火の霊力・相克関係にある土の霊力の持ち主ならば、為平の手に持つ刀子の一撃を浴びればタダでは済むまい。
この国では古来より陰陽道で重んじる陰陽五行、木→火→土→金→水という自然の摂理が信じられている。その自然の摂理の中には、相生と相克(生み出すものと滅ぼすもの)が当然ある。
(本来ならば、俺の怨気の火の霊力は為平の木の霊力と相性がいいから、相生に働き俺が有利だ。しかし)
それを人体の中に存在する、“霊力の気質”に当てはめた場合、例えれば木は火を生み出す力があるため、木を燃やす火が増長され有利となる。しかし、相生の中にも相剋(逆もある)があり、火の力よりも木の力が優ればたちまち打ち消されてしまうのだ。端的に言えば、木を小さな火種の中に焚べ続けるといずれは衰えて鎮火してしまう感じである。
故に、目の前の膨大な木の霊力を上回る火の霊力で対峙しなければ、黒露は負ける。
「滅せよ、悪鬼!」
今まで見たどんな速度よりも素早い動きで、為平が刀子を片手に迫る。そして、おもむろに横一文字に一閃した。とてつもなく大きく、太く、眩く、鋭い一撃。
なのに、やはり黒露は身動き一つしなかった。それどころか、愉快げに赤い瞳を細めていた。
「黒露っ!」
「ぬるい」
雅相が黒露の名を叫ぶ声と、黒露が呟いた声が同時に紡がれる。
後方からは雅相が黒露に向けて手を伸ばしている気配を感じ、前方では、為平が斬撃の向こうで何故か戸惑いに顔を顰めた表情がうっすらと見えた。
だが、どいつもこいつも黒露にとってはどうでもいいわけで。
むしろ雅相に関しては、黒露の力量を推し量れていないことにやや呆れさえ感じてしまう。
黒露は軽く息を吐くと、目前まで迫った翡翠色の斬撃にすっと腕を伸ばした。
そして――――。
「こんなもので、俺に一撃を浴びせられると思うなよ」
斬撃をがっしりと鷲掴み、握った場所から真っ二つにバキンとへし折ってしまったのだ。
――――そこからは、展開も早かった。
驚愕と躊躇いを見せてしまった為平に、一気に黒露が詰め寄ると、なんの衒いなく喉を掴んだのだ。そして、後方から迫る雅相に向けて、もがき苦しみ宙に浮いている足をばたつかせる為平を、無造作にぶん投げる。
無論、雅相は反応出来ずに二人とも勢いよくぶつかり合って、重なり合って、あえなくそのまま気絶してしまった。
その様を、黒露は見下げながらふんと鼻を鳴らし、腰に手を置いた。
「って」
が、その時ビリッと小さな雷が手から走る感覚を覚える。
そっと手を見遣れば、掌にヒビのように亀裂が走っていた。いつもなら、すぐさま治るはずの小さな傷が、だ。
「……やはり、憑依体では陰陽の理は通用しない、か」
仕方ないかと諦めて、息を短く漏らす。だが、すぐに脳内を切り替えると、黒露は再び地面で折り重なって気絶している少年二人を見据えた。
空は既に、黄昏色の景色を少しずつ宵闇が飲み込み始めている。これから下山して戻るとなると、恐らく二人の足では確実に夜の帳が降りきった頃に到着していたかもしれない。しかし、現在は二人とも意識がない状態なわけで。
黒露は両肩にそれぞれ少年二人を担ぎ上げると、両足に怨気を集中させ――――軽やかな身のこなしでもって、一気に山を下っていくのだった。




