第参拾陸:修行編玖 焼べられた怨気の火。
「うああああ!!いやだあああああ!」
生い茂る森に劈く勢いで、雅相はひたすら叫び声を上げ続けた。
必死に顔に着いている、もう一人の自分の鮮血や肉片を拭い去ろうと、顔を荒々しく腕で擦る。
「いやだいやだ!!何だこれ、取れないよ!助けてっ!」
目をこれでもかと開き、掻き毟らんばかりに顔を爪で引っ掻いていく。
それでも血の匂いはこびり付いており、なかなか取れなかった。
しかし、雅相が顔を引っ掻いていると、おもむろに誰かに手を捕られてしまい、一気に視界が開放的になり眩い光が直に射し込む。
「落ち着け、莫迦」
もはや聞き慣れ始めたその声に雅相が前方へ焦点を合わせれば、目の前にはやはり黒髪を高く結い上げた、赤い瞳で覗き込んでくる黒露であった。
「こく、ろ?」
「ん。突然飛び起きたと思えば、顔をいきなり掻き毟り始めおって。流石の俺も焦ったぞ」
呆然と黒露を見つめる雅相に、黒露が呆れた様にため息を吐き出す。
「ほんとうに、黒露?」
「あぁ、そうだ」
「本当に?」
感情をそぎ落としてしまったような無表情の顔で、雅相は何度も何度も黒露らしき人物に問いかける。
目の前の人物が、黒露だと確証が持てなかったからだ。
もしかしたら先程の現実味のある夢のようなものがまだ続いている可能性だってあるわけで。
雅相は目の前の黒露が、また実兄になるのではないかと恐れて何度も問いかける。
そんな訳がないと内心では思っていても、どうしても確かめずにはいられなかった。
「お前が、本物だって証明は?できるの?」
「はあ?」
黒露が訳が分からないと言いたげに怪訝な顔つきをするが、雅相は至って本気で瞬き一つせずに墨色の瞳を大きく開いている。
その目はどこか常軌を逸した様相で、黒い瞳孔が開いていた。
流石に雅相の様子がおかしいことに気付いた黒露は、言葉を紡ごうとしたがそれを胃の腑へ飲み下し、雅相を一心に見据える。
「何故証拠を欲しがる?」
「もしかしたら僕は、まだ夢の中で。お前がまだあの化け物かもしれないからだ」
「……夢か現か見極めたい訳、か」
細く吐息を漏らす黒露。
しかし雅相は、そんな黒露の吐息にすら肩をびくりと震わせて、さっと袖の中から呪符を一枚抜き取り警戒態勢に入っていた。
「分かった。俺が本物だと証明してやる」
そういって、黒露はおもむろに自分の髪を結い上げている赤い組紐を解くと、さらりと揺れる艶やかな長い黒髪を一束掴む。
一瞬の間、彼は何のためらいもなくその一束を鳳仙花のような赤い爪で、約五寸(15cmほど)ほど切り落としてしまったではないか。
黒露の手から僅かに切られてしまった黒髪が、はらはらと零れて落ちていく。
「髪には、霊力が濃縮されている。長ければ長いほど、上から下まで髪に霊力が巡るには時間を要するから、確かめるにはうってつけだろう」
ほれ、と自分で切った黒髪を手渡してくる黒露に、流石の雅相も戸惑いを隠しきれなかった。
しかし戸惑う雅相に有無を言わさずに、雅相の手に己の黒髪を乗せて突き返してくるあたり、黒露も本気なのだと伺える。
証拠をくれと言った手前、今更ここで引くわけにもいかないため雅相は恐る恐ると黒髪に宿る霊力を確かめるべく瞳を閉じた。
(あぁ。この悍ましくて肺を圧迫してくる怨気は、黒露のだ)
最近は黒露自身が怨気を隠していたために、ここ最近はこの重たげな怨気とは相見える機会はなかったが、安部宗家で戦った時と全く同じ怨気を掌に乗る黒髪から感じ取る。
ふうと目を開ければ、目の前の黒露がどうだと言わんばかりに腕組した状態で待っていた。
「疑ってごめん。黒露」
「分かればいい」
雅相の唯一の式神を己自身で疑ってしまったことに罪悪感を覚えて、雅相は目を俯けさせる。
それと同時に、本物でよかったと情の底から安堵の息が漏れ出てしまい、ここが現なのだとようやく確信が持てて、張り詰めていた息を深く吸って深呼吸を行い気持ちを落ち着かせた。
(よかった)
「取り敢えずこっちへこい。今汁粥を作ってやる」
いつの間にか、雅相が深呼吸を行っている間に黒露は焚火の方へ行っており、雅相に手招きをしていた。
それに従うようにふらふらした足取りで焚火の方へ歩み寄れば、中に焼べられた薪を轟々と燃やす業火のような深紅の焔が燃えていた。
どうみても通常の炎ではないのが見て取れる。
「黒露、この炎変だよ」
「変とは失礼な。俺の怨気でできた炎のどこが変だ」
思わず雅相が勢いよく後ずさる。
雅相の脳裏に真っ先に浮かんだのは、首を掴まれて臓腑やら皮膚やらを燃やされた過去の記憶だ。
あの時は本当に死の間際に見るとされる走馬灯も見たし、三途の川だって間近に感じていたほど死にかけたのを覚えている。
そのため存外黒露の炎が心の傷となって残っていたりする。
しかしそんな雅相を見て、黒露がにやりと意地悪な笑みをした。
「何だ雅相。俺の炎が怖いのか?」
「なっこ、怖くなんか」
「そうだろうなぁ。一度死にかけたから相当怖いだろうなあ」
黒露を黙らせようと躍起になって雅相が飛びつくが、黒露は堝を手に持ってひらりと軽やかに避ける。
堝の中からはすでにふわふわと白い湯気が立ち上がっており、後は煮立たせる工程のみのようだ。
何とも手際のよい鬼である。
「そんな弱っちい体当たりが俺に当たる訳ないだろ。舐めんな、阿呆が」
「んぎいい!!むかつく!」
挑発してくる黒露に対して頭に血が上った雅相が、さらに黒露を捕まえようと何度も挑戦するが……無論すべて躱されてしまい、雅相だけが病み上がりの体でぜえはあと息を切らせていた。
そんな黒露は、雅相の動きが止まった隙を突いて、息一つ乱さずに再び焚火で汁粥作りに取りりかかり始める。
その様を見て、雅相は絶句とともにもはや戦意喪失してしまう。勝てないと悟ってのことだ。
どっと疲れた体を引き摺りながらのそのそと焚火の方へと戻れば、黒露がふんと鼻を鳴らす。
「丸一日飲まず食わずの体に鞭打ちおって。お前は本当に愚か者だな」
「僕、丸一日寝てたんだ。どうりで、体重いし、怠いわけ、か」
手近な岩に腰かけてうな垂れる雅相。
いつも軽い体が、今ばかりは流石に枷でも付けられているのではと思うほどに重たく、どうやら唯一残っていた余力も先程で無駄に使ってしまったようだ。
確実に自身の体を確認しなかった雅相へのツケである。
「それより、お前は先ほどまでどんな夢を見ていたんだ」
ちらりと黒露が一瞥してくる気配がしたが、気付かないふりをして地面を眺めた。
「もう、忘れた」
また一つ嘘をついた。
本当は夢の事は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
黒露の顔が実兄の顔で、雅相をまた地獄へ引きづりこもうとしてきたこと、実兄の顔が今度は祖父の顔になって雅相を貶してきたこと。
そして最後は自分と同じ顔が現れて、自分の心理を突いてきて――――。
(絶対に、絶対に言いたくない。おかしな奴って思われる)
それに絶対言えるわけがなかった。
その夢の内容はどれも雅相の思っていることなのだから。
年三つの時の出来事も、祖父に食べられた方が楽だと思ったことも、でもその反面死にたくないと思う矛盾した気持ちも全部本当の事だった。
行信の件だって、自覚はしていなかったが、もう一人の自分の言う通り信用はしていなかった。
「そうか」
しかし黒露はそれ以上追及することはなく、ただ雅相にふわふわと湯気を立たせて美味しそうな匂いを放つ汁粥の入った椀を手渡す。
それを受け取ると、受け取った蓮華で野草の入った汁粥を掬って口に運べば、じんわりと腹の中が温まっていき、より複雑な気分になるのだった。
***
「ところで」
黒露が突然静寂だった修業の場に声で持って打ち破る。
雅相は現在神楽岩の上で胡坐をしており、黙想をしていたが声に反応して黒露に視線を向けていた。
お腹を満たして若干船をこぎ始めていたのは内緒だ。
「お前はこの焚火について何も思わないのか?」
「焚火?」
雅相が黒露から視線を外して、轟々と燃え盛る焚火へと移す。
「別に。今は良く燃えてるなーってくらいかな」
「うっそだろお前……」
何故か絶句する黒露に怪訝な顔をする雅相だが、本当に何も思わないのだから致し方がない。
強いて言うのなら、初日からずっと燃え続けているなあと。
あとは先ほどまで食事をしていた際、近くにいても熱くなかったしなんなら怨気の気配さえ感じなかった程度だろうか。
黒露の怨気だとは到底思えないが、見た目が完全に雅相を死の淵まで追いやったあの炎なので、黒露の炎だと結論付けられる程度である。
「その焚火が何なの?」
「なんなの?じゃない!何故おかしいとは思わんのだ!!」
「黒露が可笑しいのは今に始まったことじゃないしなあ」
先程の仕返しとばかりに挑発してみたが、黒露が乗ってくることはなかった。
のだが、代わりに魂魄が飛び出そうな勢いの盛大なため息が黒露の口から漏れ出ていった。
「神気、俺の場合は怨気か。怨気がどうやって独立しているのか、気にはならんのか?」
「あ、確かに。言われてみれば気になるかも」
黒露の口から再び大きなため息が漏れたのは言うまでもない。
きっとこれほど能天気な思考なのは、病み上がりで黙想ををしている弊害だろう。
「そも霊力とて己の体から何も使わず切り離すことはできん。呪符や真言と言う媒体があって、やっと具現化されるからな」
「たしかに」
「それも具現化と言っても、こうしてずっと世に留まることはできん。神気も怨気も然りだ」
確かに黒露の言う通りで、霊力は何かしらの媒体となるものに乗せなければ見ることができない。
呪符や真言に乗った霊力は具現化すると徒人にもみえるようになるが、見えるだけで触れることはできない。
それにこの世に留まれるのはほんの一瞬で、こうして焚火のような役割を担うことはできない。すぐ消えてしまうのだ。
「どうやってやってるの?」
「お前、本当に緩いな」
もはや呆れたと言いたげにがっくりうな垂れる黒露。
しかし眠気と興味で宙ぶらりんな意識を保っている雅相には一切効くことはなかった。
「この際、彼奴に絞られるのは覚悟の上で、お前には神気の操作を覚えてもらう」
「彼奴って、じっさまのこと?」
首をかしげる雅相に、戦々恐々で黒露は首を縦に振った。
しかし何故今になって神気の操作を覚えさせようとしているのかが謎だ。
第一この修行の目的は、黙想することによって神気を操作できるようになるとばかり思っていただけに、雅相には理解できなかったが、今の雅相のぼんやりした頭ではそれ以上の追及をしようとは思い至らなかったのだった。
「いいか、良く聞け。これは藤の狐も通った道だ。会得するのに何年もかかる恐れもある」
「そういえば、じっさまもそんなこと言ってたね」
「あぁ。彼奴はご……何年かは知らん」
どう見ても何かを言いかけた黒露がわざとらしく咳払いをするが、雅相は上の空で祖父が神気を使って戦っている姿を思い浮かべていた。
だが実際にはまだそういった姿を目にしたことがないため、あくまで空想上ではあるのだけれど。
それでもきっと、戦っている姿は実に優美なものだろう。
(そういえば、じっさまって何が得意なんだっけ)
陰陽師にはそれぞれ得手不得手の分野がある。
例えば雅相は夢見や札の作成といったものが得意で、安倍晴明は卜占や天文に呪術などを得意としている。
晴明に関しては陰陽道はもはや全てと言っても過言ではないので論外だが。
ならば祖父である安倍相良はと聞かれれば、未だに雅相は知らないままだった。
「じっさまは、何が得意なのかな」
「彼奴は、いや。いつかお前の目で確かめてみるといい」
ふっと笑う黒露の表情には、どこか少し誇らしげであり何故か頬を朱に染めているという謎のものであった。
物凄く気になる言い草にそわそわする雅相だが、黒露はそれよりもとこほんと咳払いをした。
「まず神気の操作の鍛錬に必要なものを渡しておく」
そう言って黒露から手渡されたのは――――枝葉を削り落として作られた木の棒のみであった。




