第参拾伍:修行編八 夢現。
真っ暗な視界の中で、薄らとどこからか明かりが差し込んでくる。
雅相はその光に導かれるように、意識とともに重い瞼を持ち上げた。
「ここ、は」
ぼんやりとして頭がまとまらないまま、反射的に身体を起こせば、前方には見知った葵色の衣裳を身にまとっている背中が岩に腰かけていた。
確実に鬼の姿をした黒露だろう事がうかがえる。
そんな彼の前には、ぱちぱちと火の粉を弾けさせている焚き火もあった。
「こく、ろ」
雅相が黒露に声をかける。
しかし思ったよりも声が掠れてしまっていたためか、黒露は雅相が起きたことに気付いていないようだ。
一体自分はどれ程眠っていたのだろうか。喉がカラカラでまるで喉が張り付いているみたいで水が恋しくなる。
兎にも角にも水よりも、黒露へ起床した旨を言いたくて重い腰を上げて黒露へ近付いた。
「ね、え。おきた」
「お前は、一体どれ程人に迷惑をかければ気が済むんだ」
雅相の言葉を遮るように、黒露が早口で言葉を吐いた。
その瞬間、黒露へと伸ばしかけていた手はピタリと止まっており、そのまま下降するように萎れていった。
「まだ会って一月も経たないうちに、俺にどれだけ迷惑をかければ気が済む」
「あ、ぅ……」
「何でもかんでも首を突っ込んで、お前の尻拭いは全て周りがやる。いい加減にしろ」
黒露の言う通りだ。雅相が首を突っ込めば必ず誰かへ負担をかけているのは一目瞭然。
直近でいえば、黒露の襲撃の後処理は祖父と養父が全てやったと言っても過言ではない。
安倍宗家の修繕だって、都を守ることが第一である名家の子が、それをせずに自邸へ帰ったという背信行為の始末だって雅相は一切やっていない。
雅相はもう元服しているのだ。一人の大人として責任ある行動をせねばならないのに、それらをせずに今日まで来ていた。
「ごめん、なさい」
「月の尊の件だって、お前の出る幕ではなかった。正直邪魔だった」
奥歯をグッと噛んで、ズキズキと痛みを伴う心の臓を堪える。
「どうして、お前は邪魔ばかりするんだ」
「っ違う!あの時は、黒露の情の声が流れ込んできたんだ。辛いって」
月の尊を襲う前、雅相は温かい暗闇の中で微睡んでいたのを覚えていた。
ふわふわとして、誰かに守ってもらっているような心地であった。
しかし、そんな心地のいい暗闇の中に、微かにだが黒露の哀しむ声が、自分を責める声が、誰かに助けを求めるような声が聞こえたのだ。
『俺のせいだ。あの子を人質に捕えられたのは。ごめん、ごめん』
懺悔や後悔の乗った言葉の雫は、次第に雨粒へと変わり、しとしとと雅相の頬を打ち据えていく。
だから、雅相はその雨に応えるべく目を覚ました。
だって、黒露は雅相にとって唯一の眷属であり、式神なのだ。
主人が眷属の思いに応えないわけにはいくまいて。
「だから、僕は黒露の助けになれたらって!!」
「結果は、あのざまか」
すくっと立ち上がる黒露から視線を外して、雅相は自身の太ももに置かれている拳に移す。
雅相とてまさかあんな風になるとは思ってもみなかった。
突然目が覚めて、前方に佇む菫色の髪をした男が目に入ったかと思いきや――――全身から燃え上がるような憎悪に飲み込まれてしまい、体の自由が奪われてしまった。
あの時点では雅相の意識自体は、怒りよりも真っ先に黒露を助けたいという気持ちだけで突き動かされていたため怒りなんて持ちようもない。
したがって、いつの間にか持っていた怒りの感情は、雅相以外の誰かの怒りということになるわけで。
「あれは、僕じゃない。誰かが僕の体を乗っ取っていたんだ!信じてっ」
「信じて?」
その刹那、切羽詰まった表情をする雅相とは裏腹に、何故か黒露は今までに聞いたことがないほどの大きな声で高笑いをし出したのだ。
流石に何故笑っているのか分からず、雅相は目を白黒させる。
「信じて!……お前が、その言葉を言えた義理なのか?」
「ど、いうこと?」
雅相の眉間に皺がいくつも刻まれていく。
黒露の言っている意味が理解できなかった。何故そんなことを言うのか、何故そんなにらしくない物言いをしてくるのか。
「お前、一度でも誰かを信用したことあったかよ」
その瞬間、黒露の首がゆっくり、ゆっくりとギチギチと音を立てながら雅相の方へと振り向いてくる。
それも綺麗に真反対に、だ。確実に首の骨が折れるはずなのに、彼は物ともせずに高笑いを延々と発している。
どんな勿怪だろうとそんな芸当ができる訳がない、有得ない。
――――そして、雅相はようやく拝むことができる黒露の顔に、言葉が無くなっていた。
「あはは!いつも言っていただろう?お前に信用なんてないって。ねえ、雅相」
その顔に乗っていたのは、生家でよく見かけていた雅相を嘲笑うように微笑んだ兄、安倍満保の顔であった。
藍墨の瞳は柔和に細められているのに、口元だけは裂けんばかりに耳の近くまで弧を描いており、まるで化け物のようだった。
恐怖のあまり、足が地面に縫い付けられてしまったかのようになり、逃げたくても身体が全く動かない。
(こわい、こわいこわいこわいこわい)
次第に雅相の全身からは大粒の冷たい汗が噴き出し始め、両手が恐怖に呼応するように震え出す。
「妄言ばかり言うお前を、一体誰が信じる?父も母も誰も信じてはくれなかっただろう?」
雅相自身では、いつ妄言を吐いていたのか自体の記憶は朧気で、でも確かに父と母に何かを言っていたのは微かに覚えている。
しかし、雅相の当時の年を考えれば憶えていないのも無理はない。なんせ当時四つだ、その時には既に父と母から冷たい目を向けられており、どうしてそうなったかが雅相には分からなかった。
兄の話を聞くまでは。
「庭に人の見た目をした黒い角の鬼がいただって?お前がそれを倒した、なんて誰が信じる」
「っそれ、は」
「それも、当時三つの童が呪符もなしにどうやって?」
兄の話はもっともだ。まず霊力のれの字も知らない童が、道具もなしにどうやって鬼を倒すというのか。
今聞かされても自身の事ながら頭がおかしい奴だと思ってしまう。
他人だったら確実に敬遠する類の人間だろう。
兄から目を逸らす様に俯き、どくどくと嫌に速く脈打つ心の臓のある位置の衣裳を、雅相はぎゅっと握る。
「でも安心しろ。私だけは理解してやっているぞ」
その声に雅相の体がびくりと震えた。
生家での当時の、あの情を抉られてきた日々を思い出してしまったのだ。
呼吸が徐々に浅くなっていく。まるで喉に何か小石でも詰まっているような、途切れ途切れの浅い呼吸。
(絶対に、絶対に嫌だ。戻りたくない、死にたくない)
「宗家なんて捨てて戻っておいで雅相。誰にも自分の過去を話せない、居場所のない所より兄の傍がいいだろう?」
「い、いやだ!!僕は、絶対に戻らないっ僕は、僕は」
不意に頭上の方に影が差したことに気付き、雅相は言葉を飲み込んで、驚きと嫌な予感と共に顔を上げる。
「はっあぁ、じっさ、ま。なん、で」
先程まで兄と話していたと思っていたのに、気が付けば目の前には首がぐるりと回ったままの、祖父である安倍相良が微動だにせず立っており、いつものように穏やかな微笑みで持って雅相を見下げていた。
「本当に、お前は物分かりが悪い子だね」
「は、」
祖父の一語一語が雅相の弱り切っている情へと突き刺さっていく。
「お前さえ私の一部になれば、すべて解決するんだよ」
「ひっじっさま、やめ、て」
祖父の言葉に祖父の見目に、怖気が走り雅相は後ずさりをしようとするも、石に躓いて尻餅をついてしまう。
「お前が誰にも必要とされていないのは分かっているだろうに」
「っやめて、やめてやめて!」
「十二天将たちも、お前よりも私を信用している。陰陽寮の者たちも、いや都中だ」
「もうやめてくれ!!」
必死に祖父を振り切ろうと大振りに手で払う。
が、しかし、その手は瞬時に誰かの手によって掴まれてしまい、あえなくそのまま勢いよく引き寄せられた。
驚きに顔を上げれば、雅相の腕を掴んでいたのは――――今度は、黒髪に墨色の瞳を三日月に歪めて笑う雅相自身であった。
「お前は本当に、無駄に生き汚いよな」
「う、ぁ」
「情も力も弱いくせに、この殺伐とした世で他人に頼りきりで安穏と生きようとする。恥とは思わないのか?」
雅相と同じ墨色の瞳が、雅相を嘲笑う。
怖かった、目の前に自分がいるという事実ではない。雅相の情を見透かすその言葉が恐ろしかった。
「僕は他人を信頼はする。けど誰一人として、情の中に留めたいと思う信用できる奴はいない」
「違う!!行信がいる!彼奴は、僕の事を理解してくれている唯一の朋だ!」
「はい嘘つき。そんなこと微塵も思っていない、行信は都合の良い暇つぶし相手だ」
「っう、ぐぅ!!」
言い返せなかった。幼き頃から共にいた菅原行信のことは確かに信頼している。これは本当だ、でもそれ以上でもそれ以下でもなかった。
血が滲む勢いで歯を食いしばるが、次第に雅相の勢いは失速していき、終いには自分から顔を背ける。
「もう、やめてよ。誰なんだよ……」
しかし、それを許さないとばかりにもう一人の雅相が、逸らした顔を手で掴み強引に己の方へと向かせる。
「僕はお前の一部だ。誰なんて言わせない、思い出せ」
「え、」
呆気にとられた隙を突かれ、もう一人の雅相が勢いよくぐいっと顔を寄せてくる。
その距離僅か拳ほどの隙間しかなく、雅相の瞳には大きく見開かれた赤い瞳が視界いっぱいに映りこんだ。
「お前が、十一年前僕をどうやって倒して、ここに閉じ込めたのかを」
「十一、年前?」
ぽつりと雅相が呟けば、何故か目の前にいる雅相が歪に口を弧に曲げて、雅相を勢いよく突き飛ばした。
再び尻餅をついて、何が起きたのかと目を回しながらも抗議しようと顔を上げる。が、しかし――――。
「え?」
目の前の雅相の首から上が、何か荒めの得物で斬られた跡を残して失くなっていたのだ。
どくどくと切り口である首から血が溢れ、ピューッと細く弧を描きながら血飛沫が上がる。
しかし、それだけでは終わらなかった。
彼の体が、次々と、粗目の鋭い傷口を残しながらぐちゃぐちゃと、音を立てながら消えていくではないか。
「ひっな、に!?」
左肩が、右肩が、胸部が腹が、体が消えていく毎に中身である臓腑が鮮血と共に、地面へとどちゃっと湿った音を立てて転がっていく。
「こわい、こわい誰か助けてっ!!!」
必死に目の前の惨状から背けようと目を瞑って、耳を両手で防いでも、耳の奥にこびりついたようにぐちゃ、ぐちゃ、と咀嚼音のような音が響いていく。
「誰も、信用、してないのに、誰がくるん、だよ」
咀嚼音に混じるように、しかしはっきりと先程のもう一人の雅相の声が耳の奥で聞こえる。
混乱する中で、突然死んでしまったもう一人の自分に縋るように目を開けば、開いた途端、顔に何かどろりとした水っぽいものが飛んできてべちゃりと付着した。
いきなり飛んできたために口や鼻にも入ってきたようで、咥内にまんべんなく広がったのは――――人が持つ鉄錆のような血腥い味と匂いであった。
見なければよかった。まず、死んだ者が言葉を発すること自体がおかしいのだ。
そんなことわかり切っていたはずなのに、そうできなかったのは情に余裕がないせいであって。
必死に、この状況について自分に言い訳をする雅相だが、すでに後の祭りである。
「あ、ああぁ」
しかし、そんな雅相を嘲笑うかのように真っ赤に塗り染められた視界の中で、顎から滴っていくものに視線を下げれば、ぽたぽたと赤い雫とともにまだ生暖かい何かの肉片が垂れていった。
「あぁ、うああああああああ!!!!」
顔に浴びたものを理解した瞬間、雅相はただひたすらに喉がはちきれんばかりに絶叫を上げていた。




