第6話
「…着いたぜ」
「へ!?」
低めの耳障りのいい声で耳元に囁かれ、間抜けな声して目を開け顔を上げれば、最初に飛び込んできたのは、どこまでも続く目にも鮮やかな緑の絨毯。
そして、うっそうと茂る青々とした森と平行して広がる、突き抜けるような真っ青な空。
「す、凄い…ここって」
「ここはお前が生まれた国…ウッドヴァルドゥだ」
「うっど…何?」
「ウッドヴァルドゥ王国…この通り森に囲まれた自然豊かな国がお前の故郷だ」
「ウッド…ヴァ、ル、ドゥ…」と舌を噛みそうなその名前を心に刻むよう、ゆっくりと口にしながら目の前に広がる景色に釘付けになった。
ちょうどその時、目の前をツバメに似た鳥が2羽連なって横切り、そのまま眼下の森に向って飛んで行った。
この切り立った岩壁の上から眼下に広がる、今まで見たことがない雄大な自然の景色に見とれていたあたしは、ほぅ…と知らず溜め息が漏れた。
「どうした、疲れたか?」
今までの不遜な態度が嘘のように優しく声を掛けられ、はっとなって顔をその声の主に向けた。
「人間は今、1つの大陸に5つの国に別れて暮らしている。その中心がこの国だ。この国の資源は豊富だ。
俺の見た限りじゃ、人間の世界の中じゃ一番豊かな国なんじゃねぇか。どうだリョウカ、気に入ったか?」
心を見抜かれそうな真紅の瞳で見つめられ、私は意に反して胸がドキンと跳ねドギマギとしてしまった。
今、この悪魔が発したセリフに違和感を感じつつ、ドギマギしている自分に気づかれないよう慌てて顔を逸らし、私は景色を見つめるふりをして返事をする。
「うん……凄く綺麗な所だね。こんなに森が広がって、自然がいっぱいで、空も空気も澄んでて……すっごく素敵な所だと思う」
「だな……確かにここは人間の住んでる所にしてはいい所だ」
私に向けていた視線をその崖下に広がる景色へと移し、彼は両腕を組んだ。
自分の横に立つ、その圧倒的な存在感を撒き散らしている、悪魔のようなナリをしている男をちらりと見上げた。
昔教科書で見たギリシャ彫刻のような彫りの深い横顔は、やはり人間離れしていて畏怖さえ感じる美しさだ。
そして、良く見たら肩まで伸びている髪は黒ではなかった。光を浴びているそれは、母がいつもしているブレスレットを思い出させた。
あれは……あのブレスレットの石は……確か瑪瑙だっけ?
さんさんと降り注ぐ気持ちいい太陽の光を浴びて、その瑪瑙色の髪を緑の匂いのする風に靡かせているその姿に見とれながら、ふと先ほど抱いた違和感に思い当たり尋ねてみようと口を開いた。
「あの、さっき――」
……―――人間の世界って言ったけど、もしかしてって言うか、やっぱりあなた、人間じゃないの?
「何俺に見とれてんだよ」
「はぁあ~?」
いきなり自分に視線を向けたかと思うと、この男はこんなふざけたセリフを抜かしてきた。
想像すらしていなかった言葉を耳にして、私は今口にしようとした自分の言葉を飲み込んでしまった。
確かに今、ちょっと……本当にちょびーーっとだけ見とれてたかもしれないけど、この男にこうやって指摘されると、何故こうもムカつくんだろう。
「まぁ、俺様はそこら辺じゃお目にかかれねぇほどの、超絶世の男前だからお前が見とれちまうのもしょうがねぇか」
「……何寝言ほざいてんの」
自分よりも20センチは背の高い、長身のこの憎たらしい男をギロリと睨みつけると、彼は口元に皮肉な笑みを浮かべ、その赤い目を細め私を見下ろした。
「そんな可愛い顔で見るんじゃねぇって。襲いたくなるだろ?」
「っ!?ななな……」
何て事抜かすんだこの男はっ!脳みそ腐ってんじゃないのッ!!
自分でもわかるほど憤りと羞恥が入り混じった感情で身体が熱くなり、たぶん顔だって真っ赤になっている事だろう。
ところが、物凄く不愉快な気分になった私に対して、この悪魔は謝るどころか、クククっと肩を揺らして笑い出す始末。
「ああ、腹イテェ。リョウカはホント可愛い女だな」
「ふ、ふざけないでっ!」
「さて、と…この国の外観はわかっただろ?そんじゃ、お前の両親のところへ向うとするか」
「はぃい?」
思わずしり上がりの変な声が出てしまった。
ポンポンとこの男から発せられるセリフに、私の貧弱な脳みそはついて行けない。
「りょ、りょうしん?」
「そうだ、お前の本当の親ん所に今から行くぞ」
「行くぞって…」
急にそんな事言われても……
私は戸惑いと言葉では言い表わせられない不安が胸に沸き起こる。
「それから、お前の抱いている疑問だが……」
「疑問?」
「それもお前の両親に会った時にまとめて答えてやる。まぁ、色々慣れねぇ事で大変だと思うが、俺様がついてるから心配するな。悪いようにはならねぇから」
疑問とはきっとこの男が何者かと云う事だろうか。
ついでに言えば、この世界の事も、まして自分の事も謎だらけで、心底私は不安で仕方がなかった。
けれど、この俺様男が心配ないと口にした途端、私の中のもやもやした気持ちがすーっと無くなり、すっきりした気持ちになるからホント不思議だ。
「しかし、この国は暑いなぁ」とブツブツ言っている彼に、私は心の中で『そんな暑っ苦しいマント着けてるからでしょうが』と突っ込むと「確かにその通りだな、リョウカ」そう言いながら身体に纏っていた暑苦しい……じゃなく、重苦しい真っ黒なマントを、ズサッと言う衣擦れの音と共に身体から引き剥がした。
瞬間、目に飛び込んで来たのは―――。
「ななな、何でその下裸なのよっ!?」
「ぁあ?着てるだろうが」
そう言って男は、自分の腰に巻きついている、この男の髪と同じ瑪瑙色の生地に、幾何学模様が描かれたエプロンのような布を指差した。
「そうじゃなくて、上よ、うえっ!!上半身、何で裸か聞いてんの!」
「何でっつってもよ~、俺は身体に何かを身に着けんのは、元々好きじゃねぇんだよ」
「だ、だからって外に出るときくらい何か着なさいよぉ」
最後の方は何だか泣きが入ったような情けない声で、私は燃えるように熱い顔を背けた。
チラリと見てしまった、その男の顔と同様、彫刻のように均整の取れた筋肉が付いた胸板。
兄貴の風呂上りの上半身を見た時だって、こんなに心臓が壊れてしまうほどドキドキしなかったのに。
と、男が突然私の腕を掴み自分の方へ向かせた。
そして、私の腰と背中に両腕を回して引き寄せると、男は自分の胸の中へ私を抱き入れた。
トンっと顔が男の引き締まった胸に当たり、その褐色の滑らかな肌の感触に頭の中が真っ白になる。
「リョウカはホント、初心で素直で可愛いわ」
頭上から聞こえる声が、触れている彼の胸から振動として伝わったけれど、私はその言葉の意味を考える事がうまく出来なかった。
この23年生きてきて、男の人に、ましてこんな上半身裸の男の人に抱きしめられた事など、一度としてなかったから。
「今からでも色々可愛がってやりてぇが、今は時間がない。お前の両親が首を長くして待ってるからな」
「ぇ、お父さんとお母さんが?」
「そうだ。ま、そのうちイヤって程可愛がってやるから、今は我慢しろ」
「っ!?」
あまりのセリフに、私が何も言えずアワアワと口を動かしこの男を凝視していると、私の身体を包んでいる男の腕に力が込められた。
「じゃあ、行くとするか」と口にしたかと思うと、フワリと自分の足が地面から離れる。
「ぇ、ぇええっ!な、何?」
「ゆっくり飛んで行こうと思ったが、けっこう時間が過ぎちまったからな」
「な、何言って――」
何言ってるの?と私が彼に尋ねようとしたした瞬間には、私達の身体はその岩壁の頂上から消えて無くなっていた。