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高天原の鬼  作者: いか
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3/4

穢れ

 東京の大学に進んでから、私は神道の学びについていくのに精一杯だった。


 祝詞(のりと)、祭式(さいしき)、神々の名、穢(けが)れを祓(はら)う作法。

 覚えることは山ほどあった。

 けれど、苦しいと思ったことはない。


 あの鬼を助けたい。

 なんとかして、鬼の身体に溜まった穢(けが)れを消してあげたい。


 その思いだけで、私は勉学に明け暮れた。


 やがて卒業が近づき、奉職先(ほうしょくさき)も決まった頃。

 田舎の祖母が亡くなったと連絡が来た。


 両親と私は、数年ぶりに祖母の家がある田舎へ向かった。


 葬儀(そうぎ)の後、私は親戚の集まりから抜け出し、あの神社へ向かった。


「鬼」


 階段を上がり、鳥居のそばへ行く。

 花を咲かせない桜の下を見回した。


 そこに、鬼の姿はなかった。


「鬼、どこにいる」


 不安になって、鳥居の外を探し回る。

 桜の幹のうしろ、近くの林、少し離れた藪(やぶ)の中。


 でも、どこにも、白い影はなかった。


「……約束、した……だろ」


 私は呆然と立ちつくした。

 あの鬼の優しい眼差しが、笑顔が、声が、約束が、すべて消えてなくなった気がして、私は泣きたくなった。


「嫌だ。どこに行っちゃったんだよ!! ここにいるって、約束しただろ……!!」


 鬼はもういないかもしれない。

 影になって消えてしまったのかもしれない。


 私の中で、鬼を失った絶望感が広がった。


 その時。


 社(やしろ)の方から鈴の音がした。


 ちりん。


 拝殿(はいでん)の鈴が揺れていた。

 私はその音に吸い寄せられるように、拝殿(はいでん)へ向かった。


 ちりん。


「姫神さま」


 声が震えた。


「あの鬼は……どこにいるのですか?」


 もう一度、鈴が鳴った。


 ちりん。


 そして、その音を最後に、境内(けいだい)からすべての音が消えた。


 そして、私の中に直接、言葉が落ちてきた。


――連れておいで。


 それは、背筋が凍るほど、ぞっとする美しい『声』だった。


 私は恐ろしさに震えたまま、鳥居の方を振り返る。


「鬼を……連れて……?」


 花を咲かせない桜の木の側へ戻った。

 そこに鬼の姿は見えない。


 でも。


「鬼。いるのなら、こたえて」


 私の祈るような震える声に、桜の影がわずかに揺れた。


 幹の根元に濃く落ちた影の中から、影だけの手が伸びてくる。

 それは枝の影とも、幹の影ともつかないほど黒く、けれど見覚えのある形で小指を立てていた。


 幼い日に、約束を交わしたあの手だった。


 鬼はいた。

 約束した通り、この桜の木の下に。


「一緒に、行こう」


 私は手を伸ばし、鬼の手の影に、自分の手を重ねた。


 影は、私の手を包むように広がった。

 そして、握った。


 確かに、握られている感触があった。


 初めて触れる鬼の手は、とても、とても冷たかった。


――すまない……触れてしまった……。


 鬼は私に取り憑(つ)き、内側へと入ってきた。

 胸の奥に落ちた鬼の声に、私は微笑んだ。


「昔、触れると悪いことがあるって言ってたのは、取り憑(つ)くことだったの?」


 鬼がうなずく気配がした。


「そんなの。俺は嬉しいくらいだよ」


 私の言葉に、鬼の心が少しほどけた気がする。


「一緒に、姫神さまのところへ行こう」


 私は鬼とともに、鳥居(とりい)をくぐった。

 その瞬間、私の中の鬼が小さく震えた。


 拝殿(はいでん)の前に立つと、神社の空気がぴたりと止まった。


 次の瞬間、拝殿(はいでん)の奥から強い風が吹いた。


 それはまるで、なにもかも持っていくかのように、私と、私の中の鬼を突き抜けた。

 風はあたり一面へ広がり、境内(けいだい)の木々を大きく揺らす。


 ざぁ、ざぁ、と風の音がかけぬける。


 そして鬼が、ほどけるように私の中から外へ姿を現した。


 拝殿(はいでん)の影に沈んでいた長い髪が、風になびく。

 肌も、角も、穢(けが)れに曇(くも)っていた輪郭(りんかく)さえも、風に洗われるように澄んでいく。


 黒い影が剥(は)がれ落ちるたび、鬼はあの日見た姿へ戻っていった。


 白い、それは真っ白な「鬼」へ。


「鬼」

「ヒトよ」


 私たちは手を握り合って笑い合い、拝殿(はいでん)に深く頭を下げた。


 ふと、甘い香りがした。


 振り返ると、鳥居のそばの桜が、一本だけ満開になっていた。


 春が来ても、ずっと花をつけなかった木だ。

 けれど今、その枝いっぱいに、薄紅(うすべに)の花があふれている。


 それは、姫神の美しさを映したように、どこまでも優しく、透明で、強く、儚(はかな)かった。

 まるで、これまでの鬼の献身(けんしん)を労(ねぎら)うようで、私は胸がつまった。


 鬼は、何も言わなかった。

 ただ、私の手を握る力だけが、わずかに強くなった。


─ 続 ─

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