送り出す者
最終話です
春も終わりに近づいたある日の午後、セシリアは自室の窓辺で書簡を閉じた。
庭では、ついこの前まで盛りだった花々が少しずつ色を失い始めている。季節は夏へと変わろうとしていた。
あの件が片づいてから、世間では妙に静かだった。
もちろん、何も起きなかったわけではない。社交界ではあれこれと囁かれたし、バルティエ家に対する視線も目に見えて変わった。だが、教会があまりに大きく事を運んだおかげで、かえって周囲は軽々しく面白半分の噂にしにくくなったのである。
やはり教会の判断とその異様さは、さすがに誰にとっても笑い話では済まなかったらしい。
さらに、その件に王家が興味を示したという話まで流れてきた。もっとも、実際に何か干渉があったわけではない。教会の裁定があまりにも明快で、しかもバルティエ家への処分も徹底していたため、王家としても口を挟む余地がなかったのだろう。
ただ、その過程で、別のところへ話が転がった。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
控えめな声に振り返ると、マルタがいつものように一礼して立っていた。
何ひとつ変わらない落ち着いた姿だった。長年見慣れてきた侍女の姿でありながら、今は少し違って見える。
「ええ、少し座ってちょうだい」
そう言うと、マルタは一瞬だけ目を瞬かせた。普段なら侍女に椅子を勧めることなどほとんどない。けれどセシリアはかまわず向かいを示した。
「話しておくことがあるの」
「……かしこまりました」
マルタは腰を下ろす。
セシリアは机の上に置いていた封書を、指先で軽く押さえる。
「王城から打診が来ているわ」
「王城でございますか」
さすがのマルタも、ほんのわずかに表情を変えた。
「ええ。正確には、王家に近い方からの取り次ぎだけれど。今回の件で、あなたの働きが先方の耳にも入ったらしいの」
「私のですか」
「そうよ」
セシリアは淡々と答える。
「教会があれだけ大きく動いたでしょう。そのせいで、逆に色々なところへ話が流れたの。もちろん、表向きは婚約にまつわる裁定の件だけれど、立役者は貴方だったのだから、王家の側が興味を持つのも不思議ではないわ」
マルタはすぐには答えなかった。
「最初、私は断ってもよかったのよ」
セシリアは正直に言った。
「でも、そうしなかった」
「……なぜでございますか」
「勿体ないからよ」
マルタがわずかに目を見開く。
セシリアはその反応を見ながら、少しだけ口元を和らげた。
「あなたは有能すぎるわ、マルタ。ルーベンス家で一侍女として置いておくには、惜しすぎるほどに」
「そのようなことは」
「あるのよ」
はっきりと言い切る。
「今回の件だけではないわ。ずっと前からそうだった。貴方は侍女なんて器を超えているもの。そんな人なんて、私の知る限りではそうそういないもの」
マルタは視線を伏せた。褒め言葉に慣れていないのか、それとも受け取り方に迷っているのかは分からない。
けれどセシリアは続けた。
「王家の側は、あなたの技量を買っているそうよ。待遇も、今ここで受けているものとは比べものにならないわ。給金は何倍もになるそうよ」
そこで初めて、マルタはさすがに言葉を失ったようだった。
セシリアは封書を見下ろした。
「あなたが望めば、王城勤めになる。正式に取り立てられて、もっと大きなところで働けるわ」
「お嬢様」
マルタの声は、いつもより少し低かった。
「私は、ここに残ります」
迷いのない言い方だった。
「ルーベンス家に仕える者として、これまでやってまいりました。今さら場所を変えることなど」
「できるわ」
「ですが」
「できるのよ、マルタ」
セシリアはその言葉を遮った。
冷たく言ったつもりではない。だが、きっぱりとしていた。
「あなたは残ると言ってくれるでしょうね。そういう人だもの。でも、だからこそ私が決めたの」
「お嬢様……」
そこでようやく、マルタは少し困ったように眉を寄せた。いつも主人の意向を先回りして汲む彼女にしては珍しい顔だった。
セシリアはふっと息を吐き、椅子の背にもたれる。
「私はね、今回の件でよく分かったの。あなたは、誰かのそばにいて支えるだけの人ではないわ」
「そのような買いかぶりを」
「買いかぶりではないのよ」
静かに首を振る。
「もっと上へ行ける人だもの。もっと大きな場所で働いて、もっと多くのものを動かせる。ルーベンス家の中で終わらせるには、惜しすぎるわ」
「ですが、私は……」
「ここに恩があると言うのでしょう?」
「はい」
「それなら、なおさらよ」
セシリアは微笑んだ。
「恩があるから残る、なんて、あまりにつまらないわ」
「……お嬢様は、薄情でいらっしゃいます」
「そうかもしれないわね」
言いながら、セシリアは少しだけ笑った。
「でも、優しいつもりではあるのよ」
しばらく二人のあいだに静かな間が落ちた。窓の外では風が葉を揺らし、どこかで小鳥が短く鳴いている。
やがてマルタが、観念したように小さく息をついた。
「本当に、よろしいのですか。私がいなくなれば、お嬢様は不便をなさるでしょう」
「もちろん不便よ。あなたほど気の利く侍女は、そう簡単には見つからないもの」
「でしたら」
「でも、それとこれとは別の話でしょう」
あっさりと言い切る。
「惜しいから手元に置く、なんて、それこそ三流の考え方だわ。使えるから囲っておくなんて、どこかの誰かと同じじゃない」
エドガーの名は出していない。けれど、何を指しているのかは十分に伝わったのだろう。
「……かないませんね」
「そうかしら」
マルタは苦笑し、それからゆっくりと背筋を正した。
「承知いたしました。王家からのお話、お受けいたします」
「そう。良かったわ」
その返答を聞いた瞬間、セシリアはようやく胸の奥にあった緊張が解けるのを感じた。
寂しくないといえば嘘になる。
長くそばにいた者が離れるのだ。これまで通りにはいかないだろう。きっと不便もする。時には、今ここで引き留めてしまえば楽なのにと思う瞬間もあるはずだ。
それでも、それでいいと思った。
「きっとやっていけるわ」
「そうであればよいのですが」
「大丈夫わよ、貴方なら。それと向こうへ行っても、たまには便りを送って頂戴ね。
マルタは深く頭を下げた。
その姿を見ながら、セシリアは窓の外へ目を向ける。
失ったものがなかったとは言わない。けれど、それ以上に、手放すべきものを手放し、進むべき者を進ませることができたのなら、それはきっと悪くない結末なのだろう。
もう、あの男のことを考える必要はない。
代わりに思うべきことは一つだけだった。
――どうせなら、とことん上まで行きなさい、マルタ。
それが、セシリア・ルーベンスなりの餞別だった。
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