グリーンアルモニカ、ある貴族令嬢の憧憬と死 その1~ザルツブルクの貴族令嬢の日記~
ウィーン大学の短い休講の時期に、フランツ・バウアーは友人レオポルト・アントン・フォン・グリュンタールのザルツブルクにある実家を訪れていた。
小高い丘にそびえるホーエンザルツブルク城や、大司教が愛人のために建てたミラベル宮殿ほど大きくはないが、立派なバロック様式の屋敷だった。
フランツは厚いベルベットのカーテンで縁取られた大窓から差し込む光に目を細め、全体がマホガニー色に沈む応接室を見渡した。
脚の曲線が美しいテーブルや金糸でダマスク模様が刺繍された絹張りの長椅子、絡み合う蔦が這うような彫刻が縁どる棚は、すべてマホガニーの重厚な黒褐色に艶やかに光り、沈黙し、未来永劫そこにあるべきもののように存在していた。
無造作に整えられたライトブラウンのくせのある髪が目を覆い隠すほど伸びた青年レオポルトが、ひじ掛け椅子に深く腰掛け、ゆったりと後ろに背をもたせ掛けていた。
漆黒といえるほど真っ黒な髪と真っ黒な瞳をしたフランツは、マジャール人にルーツを持つと夢想し、いつのころからか自分のエキゾチックな容姿をひそかに誇るようになっていた。
フランツは客人でもあるし、貴族の邸宅というものに慣れないせいか落ち着かず、うろうろと応接室を歩き回り、暗闇から突然白いしかめ面を浮かび上がらせる先祖の肖像画や、クリスタルガラス製のシャンデリアを眺めては、感嘆のため息を漏らしていた。
同じウィーン大学の学生といえど、フランツはしがない成り上がり商人の息子だが、レオポルトは先祖代々続く貴族の嫡子であった。
フランツはウィーンからザルツブルクまでの旅を思い出し、深い驚嘆のため息を漏らした。
「いや~~~、まったく!
いつ思い出しても興奮するね!
蒸気船でドナウ川を移動する日が来るなんて、幼いころには思いつきもしなかったよ。
科学の進歩は偉大だ!
人類万歳だね!」
レオポルトは眠そうな半眼で、小さな声で呟いた。
「ん・・・・・?そうかな?
本当に『科学は万能』だと?
例えば君のトップハット(*シルクハットのこと)を作る帽子職人に、気が触れたような神経症状を呈する者が増えてる理由は、ビーバーの毛皮からフェルトを作る際に、水銀化合物(硝酸第二水銀)を使う方法が開発されたせいだ。
水銀の毒にあたったんだ。
手間はかかるが、昔ながらの石鹸水を使う方法なら問題はなかったのにね。
ところで、君に見せたいものがある。」
レオポルトが肘掛け椅子から立ち上がりながら呟いた。
ウエストコート(*ベストのこと)の腰ポケットをゴソゴソさぐり、懐中時計を取り出し時間を確認すると
「夕食までまだ時間は充分あるな。
これを読んでみてくれないか?
そして、誰が彼女を殺したのか、推理してみてくれ」
そう言って、肘掛け椅子の前にあるマホガニーのテーブルの上に置いてあった、古ぼけた布張りの本を取り上げ、フランツに手渡した。
受け取ったフランツが、ゴワゴワした手触りの、くすんだ赤の表紙をひらき、ページをめくると、そこには柔らかい繊細な筆跡の、手書きの文字があった。
「日記帳?君のご先祖様のものかい?」
レオポルトは長い睫毛に縁どられた薄褐色の目を細め、口の端だけを動かし曖昧な笑みを浮かべ、癖のある同じ色の前髪を揺らし首を横に振った。
「いいや、それは、祖母の『友人』の日記だ。
その日記の持ち主が死ぬ直前までつけていた日記だ。
それを読めば、誰が、なぜ、彼女を殺したのか、推理できると思う。」
耳が見えるほどの短髪のフランツは漆黒の瞳を輝かせ、目を見開き
「僕に犯人を推理しろというんだね?
君はすでに犯人を知ってるのかい?」
レオポルトは肘掛け椅子にもう一度ふかく腰掛け、背をもたせかけ、足を組み、指を腰の前で組んで、リラックスした様子で
「目星はついているけどね。
君と答え合わせがしたいんだ。」
フランツはフフン!と鼻で笑うと、興味をそそられたように古い日記帳に没頭し始めた。
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1780年x月x日
ああっ!いっそあのウェルテルのように死んでしまいたい!
恋しい人と添い遂げられない運命なのだとしたら!
あの人のあの手が触れたピストルが、たった今、私のこの手にあったなら!
今すぐにも深夜十二時の鐘とともに筆を置き、その冷たい銃口をこめかみに押し当て、震える指で引き金を引くでしょう!
シャルロッテを想い、かなわぬ恋に打ちひしがれたウェルテルがそうしたように。
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ここまで読むと、フランツはあきれたように肩をすくめ
「犯人が分かったよ!彼女本人だ!
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』にかぶれて失恋した挙句、自殺したんだろ?」
叫ぶと、レオポルトがニヤニヤしながら皮肉気に
「彼女が夢見がちな若い女だったことは否定しない。
だが儚げな少女は年を取ると、往々にしてたくましい奥様になるんだよ。
さっさと続きを読んでみればいい。」
フランツは日記に目を落とし、続きを読み始めた。
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今日、街で見かけたあの人は、粗末な服装をした若い美しい少女を連れて歩いていた。
灰色のウールジャケットとスカートに、汚れたリネンのエプロンを身に着けた、レースのボンネットだけが華奢で可憐な、木靴をはいた貧しい少女。
あの人のとなりで、赤い薔薇のように頬を染め、紫の菫のように気品のある遠慮がちな微笑を浮かべていた。
あの人だって、灰色のウールジャケットとウエストコートに、ブリーチズ(腿の膨らんだズボン)と脛を覆う革靴という格好は、羊飼いにしては贅沢なほう。
あれは何年前のことだったかしら?
父上に、領地の見回りを兼ねて、小旅行に連れて行ってもらったのは。
あれは確か十二歳の春だから、もう五年も前になるのね。
(その2へつづく)




