2--話 積乱雲
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楓を見ていると、大切な人を思い出してしまう。
彼女は今も元気にしているのだろうか。
≧≧≧
中学生二年目、夏のはじめのできごとだ。
今でも鮮明に覚えている。
ある日の休み時間、その子は慌てた様子の担任に呼び出され、廊下で数分だけ会話して戻って来た。
その目に光は無かった。
いや、元々明るく振る舞う方では無いけれど、その時は特別どこか違和感を覚えたのだ。
「なんかあった?」
「え? 別に何も無いよ」
「僕にはそうは見えない」
「母親が死んだの。それだけだよ」
「……」
「それだけ? それだけって何?」
「別におかしな事でも何でも無いよ。さっさと死んでくれって思ってたし、今更そんな情報が舞い込んでくるのも腹立たしい話だからさ」
その頃の俺にはこの話はまるで理解できなかった。
「行かなくていいの?」
「どこに」
「母親のもとにだよ」
「なんで」
「そうするべきだから」
「そうするべき? それは一般的な人間の思考に過ぎない。私とは到底かけ離れた、"普通"のお話」
「でも、関係無くないよ。少なくとも僕には、その事実を自分の心から切り離せてないように視える。」
「……」
「だから、行ってきた方がいい。板書とかプリントとかは僕が――」
「何も分かってないのに分かったようなこと言わないでくんないかなあ」
その場は静まり返る。
横顔は哀愁に満ちていて、凛としたその表情のどこかには、心の突っかかりを抱えたままでいた。
教室はいつも通り騒がしいままだというのに、2人の空間はまるで外の世界から遮断されたような、そんな空気感に包まれていた。
当時の俺には、そんな沈黙を破る度胸は無くって。
ただ次に彼女が口を開くその瞬間を待つことしかできなかった。
「ごめん。感情的だったね」
俺の方を向き直して、彼女は笑い掛けた。
「⬛︎⬛︎は気にすんな。寧ろ出しゃばってごめん。でも、話くらいはせめて聞かせて欲しい。考えは整理しておいた方がいいだろ?」
下手くそな気遣いだ。
いつにもなく空元気で、強気に振舞った。
でも、思考の整理をした方がいいのは本当のことだし、最終的にはここで食い下がらなかった俺に対して感謝している。
身内の死。
彼女にとっては大きなことでは無いのかもしれないけれど、きっと、本来は小さなことであってはならない。
「なんかさー、分かんないんだよね」
「分かんない?」
「今更親がどうこうなったとか、どうでもいいってのは本心。でも、すごい漠然とした虚しさみたいなのがそこにはあってさ。君には話したこと無かったけど、父親が生きてるかどうかすら私は知らないの。海外に居るって、そう言われて育って来た。その言葉を言葉の通りに信じたとしても。この境遇を私に一人で背負わせているのだとすれば、私は父親の事も恨む。勝手に子供作って、勝手に苦しませてる。血が繋がってても赤の他人だ。むしろ死んでてくれた方が嬉しいとすら思う。でもさ……。虚しいの。このやるせなさが何なのか分かんないの。多分、普通じゃないことへの怒りとかそういうのなんだろうけど、覆らない何かに縋るのはそもそも私の考えの中にあるべきじゃないの」
どんどん底なし沼に落ちていくような。
彼女の目は、より深く黒色を抱えていた。
早く、私をこの沼から救い上げてくれ。
当時の俺……僕には、そんな風に聞こえた。
きっと迷いに迷って、それから漸く口を開けた。
「間違いなく⬛︎⬛︎の育った環境ってのは普通じゃない。普通ってのをどう定義するかは知らないけど、少なくともそこには当てはまらない。僕なりの考えだと、そこには僕も当てはまらない。アドバイスとかそういうのはできないけどさ、共感できるかもっていう俺の持論があって。なんつーか、産んだやつはちゃんと責任取れよって話でさ。僕らはこの世に生み出される時、その選択権を持ち合わせていない。ある程度の自我が芽生えるまで、多分僕らの中に死っていう概念は存在してない。要するに、死という選択権を与えられる前に人間としての情を形成させられる訳だ。人類にとって、死は華々しいものじゃない。美しい死という表現は、逃れられない最終点における、人々の無意味な、微々たる抵抗でしかない。どこまで行っても、人間において死は絶対悪なんだ。そうやって僕らは脳に染み付けられてる。だから安楽死の選択権は容易に与えられない。そのくせ自殺すんのは理論的には簡単だ。このカッターで頸動脈を切って、誰にも見つからずに出血死するのを待てばいい。あの窓から飛び降りて頭から落ちるようにすればいい。簡単だ。でも、その判断を取るのはあまりにも苦しい。誰かが悲しむとか、そんなのは気にしないって言ったって、心の片隅ではストッパーとして絶対に存在してる。死ぬ時にしか分からない痛みってやつも、死ぬその瞬間までは絶対分からない。それが漠然とした恐怖を造り上げる。死の決定権はいつでも僕らにあるけど、死ぬのってそんなに簡単じゃない。でも、生き始めるその瞬間は、決定権は僕らには無い。不慮の事故を介さなければ、何十年も僕らは生きることになる。それなのに、そいつの人格を形成させるのも、結局は他人次第だ。周りの幸せそうな奴らを見て来て、これまでに散々イラついた。育った環境さえ違えば、僕もこういうマインドで……つってね。十数年掛けて、しかも幼少期に形成されたその考え方とか癖は、記憶喪失でもしなければ覆せないし。いや、記憶喪失しても失われないかもだけどさ」
なんてね。そうやって、無理矢理笑顔を作った。
そんな俺には見向きもせずに、彼女は最後にこう言った。
「そもそも、こんな考え方を持ってるってこと自体が私達が普通じゃないことの証明だよ」
僕らは、少々大人び過ぎているようだ。
俺の言葉が彼女にどう作用したのかは分からない。
結局これ以降、彼女とそういった会話をすることは無かった。
そして、数週間後に彼女は居なくなった。
遠くに身寄りがあったらしい。
当然彼女はスマホなんて持っていなかったし、今更連絡を取る手段なんて残されては居なかった。
彼女が別れを告げに学校に来ることは無くって、俺と⬛︎⬛︎との接点はあの日が最後になってしまった。
『君は強いね。ありがとう。ばいばい』
≦≦≦
今となっては、彼女はあの瞬間からこうなる事がわかっていたのかもしれないとも思う。
最後の挨拶にしては簡素で。
複雑に感情が入り交じった、別れの言葉だった。
その時の俺は、彼女の存在感に圧倒されて、ただ立ち尽くしていただけの少年だ。
俺は、当時から一貫した考えを持っている。
その時語った言葉は、今も間違ったものだとは思っていない。
考え方が深くなることはあるけれど、根幹が揺らぐ事はこれからも絶対に無いのだろう。
それで、他責思考になるべきだなって今は思って生きてる。基本的には、育った環境が悪い。親が悪い。それで片付けられることは多いんだ。軽はずみな表現だけど、"親ガチャ"って言葉はあながち間違ってない、的を得てる発言だなって思う。
でも結局は、変わらない事実から現実逃避しようとしているだけの愚行でしかない。逃げる事を悪いとも思わないけど、それは愉しいかと言われるとNoだ。
まあそんなのはどうでも良くって。
問題は、楓美奈という存在に対して、⬛︎⬛︎を投影させてしまう自分がいる。
恋愛感情とかそういうのじゃない。
俺が⬛︎⬛︎との関係値に心残りを覚えているのは、紛れもなく俺にとって。俺のこのどうしようもない人生にとって、その在り方を変えてくれるキーマンであるという確信があったからだ。
そもそもそれを他人に求めるのはまず違う。
ましてや、全く関係の無い楓にその未練を追求するのは、おかしな話だ。
でも、俺はそうしなきゃ納得がいかない。
俺も楓も⬛︎⬛︎も。同じような境遇に生きる人間だ。
そこで、感情と考えを共有し続けるということは間違った選択じゃない。寧ろ、正しい方向へと歩むための一つの解法、精神安定剤だとも思う。
できることならば、彼女を探し、もう一度だけ話をするべきだ。
やろうと思えば、きっと俺は見つけられる。
数年かかってしまってでも、どうせ見つけ出すことができるだろう。
それでも俺がそうしないのは、
怖いからだ。
⬛︎⬛︎は変わっているのかもしれない。死んでいるのかもしれない。俺の事を忘れているかもしれない。
明日、太陽の上る方角を向いているかもしれない。
変わるのが怖い。変えられるのが怖い。
俺の思考と、彼女の在り方を。
だから、楓美奈という投影物に縋って、再び逃げようとしている。
きっといつかはボロが出る。
理想と現実はいつも乖離する物だ。
でも、現状を変えるその要因が自分自身になってしまっては、自分が自分で居られなくなってしまうような、そんな恐怖感に襲われてしまう。
だから僕は今日も逃げ続けた。
だから僕は、今日も騙し続ける。
だから、俺は……




