1話 蜜
今、この瞬間。
私はただ存在するための理由を、追い求めている。
◈ ◈ ◈
私が高校生になった頃、
ただ一人の親友だった千夏は事故で亡くなった。
それ以降人との関わりを極力避け続けた私は、1部の同級生達に目をつけられる羽目にもなっていた。
私には暴力団員の父親がいる。母はどんな人か知らないが、父は私に「国外に住んでいる」と言う。私が産まれた頃から既に居なかったのだと。
どこまでが真実なのかは分からない。
私はもう、そんな嘘に惑わされるような哀れな幼き少女ではない。
きっと私が生まれる頃に離婚したのだろう。或いは、この世に既に存在しないのだろう。
父親は自分自身を「空叶組」の幹部だと言い張っている。父は自慢げで、私はそれを誇りに思わない。
具体的に何をしているかは知らない。知ろうとすらも思わない。時々、血を流して帰ってくることもある。
私は血が嫌いだ。
父親は私には大抵優しいから、そういう時は話しかけてこない。
でも、そんな父親もお酒が入ると豹変する。突然部屋にやってきて、殴られるし蹴られる。父は男で大人だ。それも、暴力団の。高校生のそれとは訳が違う。
けれど、私はもともと高校生になったら家を出ろと言われていた。まだ出て行っていないから、耐えるべきは私なのかもしれない。父親が何も言及してこないから、それに縋っているのが今の私だ。
1人になりたい。でも、正直家を出ると言っても実感が湧かない。どうすることもできない。
風が吹いた。
部活帰り、やけに傷心的な気分になった。
”私が生きてることに意味ってあるの?"
答えはなんとなく分かっている。
私はモノだ。ただ意味の無い蠢く物だ。
生きる意味を探す必要は本来無い。
私がそれを望んでいる訳じゃない。
ただ、私の関わってきた、これまでの世界の流れがそうさせているだけ。
できるなら私だって……
心の中でため息をつく。
明日からはまた、普通に生きよう。
こんな考え事をしているのはなぜ?
息が詰まる。そんな自分に腹が立ってくる。
そこにあった石ころを蹴る。
爪先が掠って、じんと痛む。
果たしてこれで気分が晴れたのだろうか。
辺りは夕方の5時にも関わらず薄暗く、かなり冷え込んでいる。
季節の変わり行くその瞬間を感じる。
蹴り飛ばした石ころは一年中貼られてある選挙ポスターの看板に当たり、甲高い金属音が鳴り響いた。
これだけでも、警察に見られていたら捕まるのかな。なんて思ったりしてみた。
今日は石ころを蹴りながら帰ろう。
あの時そうしたように。
いつものように、しゃがみ込んで。
蹴りやすい石を探して。
そんな事を考えていると、千夏といた楽しかった日々を思い出す。
ただその瞬間だけでも幸せだった。幸せすぎた。
二人でいるといつも笑っていて、泣く時は嬉し泣きだった。
その頃、周りの人達に比べればあまりにも幸せが長すぎたのかもしれない。
だから、その幸せの分だけ……?
「なんで!」
きっと今、私は不格好だ。痛む足で踏み込んで、不格好に叫んだんだ。
最悪だ。
でも、周りは気にならない。
どうせこの気持ちは、今だけのものだから。
また明日から、何も変えられない道を歩くの?
なぜ千夏は死ななければならなかった?
千夏は本当に事故で死んだだけなの?
母親は今どこで何をしている?
もう一度、もう一度だけ声を上げたい。
私の中に生まれた、この違和感を取り除きたい。
「……っ!」
上手く声が出せない。感情的ならば不意にあんな大声が出るくせに、意図して出せないのが私だ。
「いい声してるじゃん」
後ろから含みのある低い声が聞こえる。
驚きはしなかった。近所迷惑だから。
怒鳴られることも考えたから。
でも、それとは違うどこか聞き覚えのある声だった。
なんだっけ。
声のもとに振り返って、目を細める。
私と同じ学校の制服を着ている。
街灯の当たり方が悪い。
口元より上がはっきり見えない。
彼は少し驚いたような素振りをする。
それから、口元に微かな笑みを浮かべた。
「ほら、いっつもお昼の放送してる人」
彼は言ってきた。まるで全部見透かされてるように。
とはいえ、少し驚いた。
昼の放送は嫌いじゃない。
「はは、結構ウケはいいんだけどね」
少し興味を持った。
でも、失望した。どうでもよくなった。
自惚れる奴は嫌いだ。
それが冗談でも、今の私にはそれを許容する心の余裕が無かった。
帰ろう。
ああ、水が溜まっている。
私はあまりその水が好きではない。
綺麗事を具現化した塊だ。この世の不純物だ。
「待って」
「なんですか。関わらないで下さい。友達がもうすぐ来ます。私は警察に通報することもできる。或いは今すぐ大声を出すことも。」
私は笑ってみせる。
圧倒して、逃げればいい。
「友達ねえ。てか、さっきの大声で誰も出てこないのに助け呼んでも無駄でしょ。あと、君は学校に携帯を持ってきていない」
言い返せない。そんな私を見てから、彼はまた口を開いた。
「君と話がしたい。君のために。あと、俺の保身のためにも」
さっきからこの人は何がしたいのだろう。
悪い人間にしか見えない。
いきなり話しかけてきたと思えば、知った口で煽ってくる。第一、私はこの人のことをお昼の放送屋さんとしか認知していない。
学年も名前も、言うなれば、性別も知らない。
「うーん、こっから1番近いカフェしってる?」
「知りません。それに今日は遅いのでまたいつか機会があれば」
「いや、駄目。期日がある。明後日には全部纏めないといけない。君の協力が必要だ。楓美菜。」
フルネーム。
諦めそうもない。
「ここで要件をお願いします。早く家に帰りたい」
「君はそんなに家が好きだったのか?」
彼が少し前に出てくる。顔が見えた。
それは一瞬、強ばっているようにもとれた。
だけど、すぐにその表情は壊れた。
色んな感情が交差しているようで、どんな色の感情かはまるで読み取れない。
「ここじゃメモが取れない。書類も多いし書き込むことが多い。それに……」
言葉が詰まる。
「はい?」
「喉が渇いた」
呆れた。
「帰りますね。その要件とやらは、とりあえず全て拒絶させてもらいます。書類は適当に書いといて下さい。それと……」
「それと?」
私はカバンを地面に下ろして開ける。
暗くて中は見えないが位置は覚えている。
「水筒、忙しいなら持ってって下さい。明日返してくれたらなんでもいいので。」
「……」
出過ぎた真似だった? 最低。
馬鹿らしい。
「すみません、潔癖症でしたか」
あくまで平然をとり装う
「いや……。貰える? 助かる」
私は水筒を手渡す。
中にはもうぬるくなったであろう紅茶が入っている。
あまり他のお茶は好きじゃない。香りが多種多様でいい。
彼は紅茶に口をつける。
それから溜息混じりで……
「急に悪かった。明日、学校で呼びに行くと思う。明日ならギリギリ間に合うと思うから」
「では」
また何か話題を振られる前に、颯爽と。足早に私はそこを立ち去る。
でもなぜか。
なぜか、心が温まった気がした。
緊張のせいで数分前までの思考が全部吹っ飛んでいる。
久し振りにこんなにも人と話したせいで、鼓動が速い。
目眩がする。
でも、悪い気はしなかった。