夢の入り口の鍵貸し
ハッカ蒸しの原の夜が深まり、桃色の月が天頂に差し掛かる頃、風車小屋の裏手にひっそりと店を構える「鍵貸し」の元へ、一匹の猫が訪ねてきました。
建物の壁には、世界中から集められたあらゆる形状の鍵穴が埋め込まれており、夜風が吹くたびにそれらがひそひそと内緒話をしているような、不思議な地鳴りが響いています。
店主のピエールは、首から無数の古びた鍵をジャラジャラとぶら下げた細身の猫で、彼が歩くたびに金属同士が触れ合い、風鈴のような涼やかな音を立てます。
彼は、眠りの淵に立つ者が望む夢の世界へ繋がる扉を開ける「夢の入り口の鍵」を貸し出す、風変わりな商売をしていました。
今夜の客は、最近ひどい悪夢にうなされ、眠ることを恐れて目の下に深い隈を作った若猫のルナでした。
彼女は震える声で、「二度と悲しい思いをしない、永遠に幸せな記憶だけが続く夢が見られる鍵を貸してほしい」とピエールに懇願していました。
ピエールが細長い指で、棚の奥から一本の、眩いばかりに輝く黄金の鍵を取り出そうとしたその時です。
横から伸びてきた節くれだった手が、その鍵をひょいと取り上げました。
モンジロウは、黄金の輝きを放つ鍵を月光にかざし、まじまじと眺めました。
「おい、ピエール。あんた、また危ない商売をしてるな。幸せだけの夢ってのは、出口のない迷路と同じだ。甘い霧の中に閉じ込められちまったら、現実のハッカの苦い香りを忘れちまうぜ」
ピエールは肩をすくめ、モンジロウの手から鍵を奪い返そうとはしませんでした。
モンジロウはネルに向かって、腰に下げた調律用の真鍮の小槌を無造作に差し出しました。
「ネル、この黄金の鍵の音を聴いてみな。お前にはどう聞こえる?」
ネルが受け取った小槌で、黄金の鍵を軽く叩くと、そこからは耳を刺すような、不自然に高い、研ぎ澄まれすぎた音が響きました。
それは、悲しみや苦しみ、後悔といった雑味を無理やり削ぎ落とした、歪な純粋さを持っていました。
音階は完璧でしたが、そこに体温や湿り気といった「生きた証」が一切感じられず、ネルは思わず耳を伏せ、顔を顰めました。
「……なんだか、ひどく冷たい音がします。きれいで眩しいけれど、中身が詰まっていない、空っぽな感じです」
「その通りだ。夢ってのはな、その日の疲れや、ちょっとした不安、そして明日への期待が複雑に混ざり合って、初めて心の真の休息になる。幸せだけを抽出した夢は、ただの毒だ。ネル、ルナに貸してやるべき鍵は、そっちじゃないだろう?」
モンジロウの言葉に導かれるように、ネルはピエールの棚を必死に探しました。
きらびやかな宝石が埋め込まれた鍵や、氷のように冷たい鍵をいくつも通り過ぎ、一番奥の埃を被った場所に、その鍵はありました。
それは少しだけ錆びついていて、形も不恰好でしたが、握ると掌にじんわりと温かみを感じる真鍮の鍵でした。
それを小槌で叩くと、低く穏やかな、まるでモンジロウが満足げに喉を鳴らしている時のような、包容力のある音がしました。
「ルナさん、こっちの鍵を使ってください。この鍵が開けるのは、あなたが昔見た頑張った日の夕暮れや、雨宿りの時の温かさが混ざった、本当のあなたの夢です。少しだけ寂しいかもしれないけれど、きっと安心して眠れるはずです」
ルナがその鍵を恐る恐る受け取り、そっと胸に当てると、彼女の強張っていた表情から、すっと緊張が消えていきました。
ピエールは苦笑いしながら、「商売上がったりだ」と肩をすくめて呟きましたが、その手は優しくルナの背中を押して、出口へと導いていました。
彼女が去った後、ピエールは店の掟をネルに教えるように口にしました。
「いいかい、ネル。鍵を貸す時の鉄則だ。入り口は私が用意するが、出口は自分自身の力で見つけなきゃならない。夢に逃げるのか、夢で癒されて戻ってくるのか。それは本人の気配次第なんだよ」
モンジロウはパイプをくわえ、紫煙を大きく吐き出しながら、夜の静寂の中で風車が回る規則正しい音に耳を傾けました。
「夢も、ハッカの蒸気と同じだ。適度に吸えば体を解すが、浸かりすぎれば自分という形を失う。ネル、今夜は俺たちも、出口がはっきり見えるくらいの、手加減した夢を見るとしようじゃないか」
小屋に戻る道すがら、ネルは自分の首元の鈴を小さく鳴らしました。
頬を撫でる現実の冷たい夜風と、鼻を抜けるハッカの鋭い香り。
夢の世界の無限の美しさを知ったからこそ、この不器用で、けれど確かな手応えのある現実が、今は何よりも愛おしく感じられるのでした。
空には魚の骨の雲が静かに横たわり、眠りにつく森の深い静寂を、優しく見守るように広がっていました。
ネルは明日という新しい一日が、どんな不協和音を連れてくるのかを、少しだけ楽しみにしながら、ふかふかのベッドに潜り込みました。




