雨を溜める水琴窟
祭りの熱気が去ったハッカ蒸しの原に、しとしとと静かな雨が降り始めたのでした。
湿り気を帯びた風が、残り香となったハッカの甘苦い香りを運び、森は淡い銀色の霧に包まれていきました。
この森の雨は、空から落ちる途中で浮遊する「音の種」と触れ合い、それぞれが固有の音階を持って地面へと辿り着くのです。
ある粒は嬰ヘ短調の悲しみを、またある粒はハ長調の無邪気さを纏い、葉を叩く音さえもが、緻密に計算されたスコアのように重なり合っていました。
モンジロウは、長年の雨風にさらされて琥珀色に変色した、古びた油紙の傘を差し、ネルを連れて森の北側にある深い渓谷へと向かいました。
「足元に気をつけろよ。このあたりの泥は『未練』を吸ってやがる。一度嵌まれば、歩くたびに重くなるからな」
モンジロウの言葉に、ネルは泥を跳ね上げないよう慎重に歩みを進めるのでした。
谷の奥からは、冷ややかな湿気と共に、幾重にも重なった硬質な音の残響が、まるで地鳴りのように低く響いてきました。
そこには、雨音をこよなく愛する気難しい老猫「ロロ」が住む、広大な岩場がありました。
ロロは、無数の石を幾何学的な模様を描くように複雑に組み上げた「水琴窟」の迷宮の中に、彫像のように鎮座していました。
湿った毛並みは灰色に沈み、細く閉じた瞼の裏で、彼は外の世界を拒絶するように音だけに意識を研ぎ澄ませていたのです。
彼はこの場所で、千年以上も前から降り続く雨の音を、瓶に詰めるようにして分類し、コレクションしているといわれていました。
ネルが恐る恐る足を踏み入れれば、あちこちの岩の隙間から、キン、という鋭い金属的な音や、ポト、という柔らかな音が、不規則ながらも絶妙な調和を持って響いてきました。
しかし、その音の連なりは、美しくもありながら、どこか心臓を圧迫されるような、息苦しさを感じさせるものでした。
「モンジロウか。また騒々しい弟子を連れてきたな。今は『三千年前の夕立』に似た雫が落ちるのを待っているところだ。余計な足音を立てて波形を乱すな。邪魔をするな」
ロロは目も開けずに、耳だけをレーダーのように激しく動かして、空から降る無数の音の粒子を追っていたのでした。
しかし、彼の水琴窟の音は、どこか濁っているようにネルには感じられました。
耳を澄ませば澄ますほど、澄んだ響きの底に、泥が詰まったような、鈍く重苦しい音が混ざっているのが分かります。
それは、美しい記憶が古びて、澱んでしまったような不快な不協和音でした。
モンジロウは鼻を鳴らし、愛用の真鍮のパイプをくわえて紫煙を吐き出しました。
「ロロ、あんたの耳も焼きが回ったな。コレクションに執着しすぎて、水琴窟の底に『執着の泥』が溜まっているぜ。古い水を溜め込み、新しい響きを拒んでやがる。これじゃあ、どんな名曲もドブネズミの鳴き声と変わらねえ」
モンジロウに痛いところを突かれ、ロロは苦々しく目を開けました。
その瞳には、かつての瑞々しい好奇心ではなく、蒐集家特有の暗い熱が宿っていました。
確かに、彼が大切にしている「雨粒の音」は、溜まりすぎた思い出という名の沈殿物のせいで、本来の輝きを失っていたのです。
ロロは音を「所有」しようとするあまり、水が流れるのを止めてしまっていたのでした。
「ネル、お前の番だ。その鈴の音を、水琴窟の最深部にある共鳴腔へ通してみろ。音を捕まえるんじゃなく、解き放つんだ。お前の鈴なら、ここの『詰まり』を貫けるはずだ」
ネルはロロの鋭い視線に気圧され、顔色を伺いながら、岩場の中央にある最も深い穴の前に立ちました。
そこからは、かつての美しい記憶が腐敗し、重く沈んだ冷たい気配が漂ってきました。
穴の奥を覗き込んでも、ただ深い闇があるだけで、そこにあるはずの水面さえも見えないのでした。
ネルは震える手で首元の鈴を外し、その穴の上で静かに静止させました。
パチ、と小さな雨粒が鈴に当たり、その振動が鈴の核を震わせました。
小さな音が、重力に引かれるように洞窟の奥へと吸い込まれていきます。
ネルは、特定の音を、ロロが求めているような完璧な音を捕まえようとするのをやめました。
ただ、降り注ぐ雨が大地を潤し、地下水となって川を巡り、やがて海へと帰っていく大きな循環に意識を向けたのです。
自分もまた、その大きな流れの一部に過ぎないのだと、静かに目を閉じました。
そして、自分の鈴を一度だけ、これまでにないほど優しく、祈るように揺らしたのです。
チリン……
その清らかな一音が、水琴窟の底に溜まっていた重い泥を鋭く撹拌し、堰き止められていた古い水を一気に押し出しました。
ゴボリ、という低い音と共に、岩場の底を流れる水脈が息を吹き返しました。
すると、地底の奥深くで眠っていた真の共鳴が目覚め、迷宮を構成する無数の岩が、一斉に歌い始めたのでした。
それはロロが必死に求めていた「過去の音」の再現ではなく、今この瞬間にしか存在しない、瑞々しく奔放な生命の合唱でした。
岩肌を伝う雫が、水琴窟の空洞の中で跳ね、踊り、光のような音色を放ちました。
「……ああ、そうだ。私はこれを、閉じ込めてはいけなかったのだ。流れていくからこそ、音は死なないのだな」
ロロはそう力なく呟くと、憑き物が落ちたような穏やかな顔で、自分の水琴窟を塞いでいた栓を抜き、古い水を流し始めたのでした。
岩場からは再び、透明な水晶を砕いたような音が溢れ出し、ハッカ蒸しの原の雨空へと溶けていきました。
帰り道、雨は霧雨へと変わり、雲の切れ間から淡い光が差し込み始めていました。
モンジロウは傘をくるくると回して水滴を飛ばしながら、ネルの隣を歩きます。
「美しいものを自分のものにしようとすれば、それはいつか音を失う。執着は、耳を塞ぐ一番の毒だからな……調律師ってのは、それを世界に返してやるための案内人なんだ。持ち主じゃなく、な」
ネルの首元で再び結ばれた鈴は、雨上がりの清浄な空気を含んで、どこまでも自由に、軽やかに鳴り続けていました。
森は再び、健やかに流れる水の音に満たされ、魚の骨の形をした雲が、雨上がりの空を気持ちよさそうに泳ぎ始めたのでした。
その影が、キラキラと輝く濡れた森の地面を、慈しむようにゆっくりとなでていきました。




