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雲を煮詰めるジャム職人

 ハッカ蒸しの原の空は、時に気まぐれで、残酷なほどに重苦しい表情を見せることがありました。

 ある朝、ネルがまどろみの中から目を覚ますと、風車小屋の周囲は見たこともないような低い雲に包まれていました。

 その雲は、いつもの綿菓子のような軽やかなものではなく、まるで濡れた羊毛のようにずっしりと重く、地面を這うようにして停滞していたのです。

「おい、ネル。いつまで夢を見てやがる、ぐずぐずするな。今日は空の掃除日だ。こんなに重い雲が居座っちまったら、地面から芽吹こうとしている音の種が全部押し潰されちまうぜ」

 モンジロウは、いつものガウンの上に、撥水性の高そうな古いエプロンを無造作に重ね着していました。

 彼の手には、使い込まれた真鍮製の大きな鍋と、柄の長い頑丈な木の匙が握られていました。

 ネルは慌てて師匠の後を追い、湿った冷気が立ち込める小屋の前の広場へと向かったのです。

 広場の中央には、一匹の猫が困り果てた様子で、尻尾を力なく垂らして立ち尽くしていました。

 名はトト。

 この森で「忘れ物預かり所」を営む、柳のように穏やかな性格をした老猫でした。

 彼の周りには、空から零れ落ちた「重い雲」の塊が、巨大な灰色の水溜まりのようにいくつも転がっていたのです。

「モンジロウさん、弱りました。この雲には、町の人々が捨て場所を失って吐き出した『言い出せなかった未練』がたっぷりと吸い込まれているんです。あまりに執着が重すぎて、風車がいくら回っても吹き飛ばせないんですよ」

 トトがそう言って雲の一端にそっと触れると、雲からは微かに、深い溜息のような、あるいは湿った古い手紙を破くような、低く沈んだ音が漏れ出したのでした。

 モンジロウは鼻を鳴らし、重厚な音を立てて鍋を地面に置きました。

「未練か。そいつは感情の不純物の中でも一番厄介な代物だな。だが、そのまま放置しておけば腐って毒になり、森の喉を詰まらせる。ネル、火を熾せ。最高級のハッカの薪を使ってな。こいつを徹底的に煮詰めて、甘いジャムにしてしまうんだ」

 ネルは驚いて目を丸くしました。

 空に漂う雲を煮詰めてジャムにするなんて、想像もしたことがなかったからです。

 言われた通りに、清涼な香りを放つハッカの薪を必死に集めて火を熾すと、透き通った青白い炎が静かに、しかし力強く立ち上がりました。

 モンジロウは手際よく、トトの周りに転がっているドロドロとした雲の塊を、大鍋の中へと放り込んでいきました。

 加熱された雲は、最初こそ真っ黒な煙を上げて抵抗するように泡立ち、嫌な音を立てていましたが、モンジロウが木の匙でゆっくりと、心臓の鼓動と同じ一定のリズムでかき回し始めると、次第に濁りが消え、透明感のある美しい琥珀色へと変化していったのです。

「いいか、ネル。かき回す手を一瞬たりとも止めるな。リズムが狂えば、ジャムの中に濁った悲しみが残っちまう。楽しい思い出だけを丁寧に抽出するように、優しく、かつ力強くだ」

 モンジロウに促され、ネルは交代して重い匙を握りました。

 鍋の中の雲は、見た目以上に驚くほど重く、まるで粘り気の強い泥の中を懸命に泳いでいるような感覚でした。

 しかし、必死にかき回し続けるうちに、鍋からは甘く、そして胸の奥が少しだけ切なくなるような香りが漂い始めました。

 それは初恋の後の雨上がりのような、あるいは独りで見上げた遠い日の夕焼けのような、喉の奥がキュッとなるほど懐かしい匂いだったのです。

 トトが銀色の小さな缶を取り出し、完成した琥珀色の液体を一つひとつ丁寧に詰めていきました。

 あんなに地面を圧迫していた「重い雲」は、今や一匙で凍えた心を温めるような、極上の「未練ジャム」へと生まれ変わっていました。

「未練ってのはな、ネル。ただ捨てようとすれば足元を掬う重荷になるが、こうしてじっくりと火にかけて向き合ってやれば、明日を生きていくための栄養になる……ほら、一舐めしてみろ」

 モンジロウに差し出され、ネルは匙に残った黄金色のジャムを恐る恐る舌に乗せてみました。

 口の中に広がったのは、脳を揺さぶるような猛烈な甘さと、鼻を突き抜ける爽やかなハッカの風味、そして、最後には祈るような少しばかりのほろ苦い後味が残りました。

「おいしい……。でも、なんだか不思議と泣きたくなるような味です」

「それが正解だ。生きた思い出ってのは、ただ甘いだけじゃねえんだよ」

 すべての雲を煮詰め終わる頃には、どんよりとしていた空はすっかり晴れ渡り、高く澄み切っていました。

 重しが取れたハッカ蒸しの原では、音の種たちが一斉に弾け、世界を祝福するような軽やかなファンファーレを奏で始めたのでした。

 トトは満足げに数缶のジャムを預かり所の棚へと持ち帰り、残りのジャムは猫たちの朝食のために、風車小屋の質素なテーブルに並べられました。

 焼きたてのパンに琥珀色のジャムをたっぷり塗って頬張ると、ネルの体は不思議と綿毛のように軽くなり、足取りさえも浮つくようでした。

 モンジロウは相変わらず皮肉な口調で「まだまだ煮詰め方が甘い」と文句を並べていましたが、その手はすでに二枚目のパンに伸びていたのです。

 空にはまた、魚の骨の形をした白い雲が悠然と流れ始めていました。

 ネルは、昨日よりも空を見上げるのが少しだけ誇らしくなったのを感じました。

 自分がかき回したあの重い絶望の塊が、今は誰かの心を満たす甘い滋養になっている。

 ハッカの香る爽やかな朝の空気の中で、ネルは調律師という仕事の深さと、ままならない世界の愛おしさを、また一つ肌で感じていたのでした。

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